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2010年11月23日 (火)

シルヴァスタイン:おおきな木 その2

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当然、即買いしました、ある種の恐れを抱きつつ。そして早速読んでみて、それからネット上のさまざまな読者レビューも読んでみて。現在頭の整理中です。
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以下、ツルの現在における結論をがっつり述べてまいります。ネット上のレビューで取り沙汰されている問題を織り交ぜつつ。もう、論争も辞さずって勢いで。もちろん様々な理解を許す内容であることは承知の上。大作化する予定なので、少しずつ。

でも、その前に。
初めに立ち位置を明らかにしておくと、ツルは本田錦一郎の訳は大変な名訳であると以前から思ってました。本田訳がいろいろな論議を呼んできたのも知っているけれど。(もちろん原文の英語版も持ってます)
だからツル的には、新訳はぜひともそれを超えるもの、凌ぐものでなきゃならないんです。ト勝手にハードルを上げといてと。

ちなみに篠崎書林からはかつて和英バイリンガル版なんてのも出てたんですねー。もち、本田訳で。これ、ほしいなー。↓

Bilingual Edition

村上訳でもそのうち出たりするんですかねえ?

(以下の記載にはストーリーの核心に触れた部分が出てくる予定です、未読の方は気をつけて)

・村上訳の第一印象は、英語の原文に忠実に訳したという感じ。旧版の本田訳は意訳であるとされてきており(ツルはいずれ後述するであろう理由から必ずしもそうとばかりは思わないが)、それに比べると無難にまとめた印象です。

・違う観点から言えば、常体から敬体に改められたせいもあってか、本田訳は詩的あるいは韻文的、村上訳は散文的と感じられる。
これを、村上訳は日本語として読みやすくなったとする評もある(簡単な漢字を(ルビつきで)使用したことも関係していよう)が、ツルにはそうは思えない。一例を引いてみよう。

原文
『"I have no house," said the tree.
"The forest is my house, (後略)"』

本田訳
『きが いった 「わたしには いえはないのだよ
この もりが わたしの いえだから。(後略)」』

村上訳
『「わたしは家をもっていないの」と木はいいました。
「この森がわたしの家なのだから。(後略)」』

どうです。本田訳、そのまま流れ出た詩です。全体的に、村上訳の文章は読み聞かせるのにより適しているのかもしれないけれど、それって読みやすいとかって問題ですっけ?心の奥にそっと沈んで永く残るのは、本田訳だと思うんです。もち、ツルの主観なり。
ちなみにツルは、聖書なんて文語で読むに限る、って方です。「栄華を極めたるソロモンだにその装いこの花の一つにも及かざりき」の方が、「栄華を極めたときのソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」より、いいじゃん。「汝姦淫するなかれ」の方が、「あなたは姦淫してはなりません」より、十戒らしく厳しいじゃん。

ネット上、本田訳に対しては「どんな英語であったかすぐに判るような、こなれてない部分もある」という評価もあった。でも、これがどこを指しているのか、どうしても理解できない・・・。いえ、これは批判してるのではなく、ただ純粋にわからないんです、ツルは。

ここでふと気づいた。シルヴァスタインの他の絵本は倉橋由美子によって訳されているのだけれども、この訳が昔からどうしても好きになれない。倉橋由美子の資質がシルヴァスタインには合わないんじゃないかと思えてしかたがないんだけれど、ひょっとしたら、倉橋訳が詩になりきれてないと感じられるところもその原因だったのかもしれない。
あ、倉橋訳こそ、原文を容易に推測しやすいような生硬な文章じゃないかと・・・あはは。

・だんだんディープに潜ってまいります。
原文ではtreeをsheで受けていることは知ってました。本田訳はこれを中性的あるいは無性的に表していたところ、村上訳では女性性を明らかにしている。これに何らかの意味を見出だすことはできるのか?
普通は、後者の方が原文に忠実ってことになるんでしょう、一応。読者レビューを見てみても、母性愛の観点から論じたものが圧倒的に多いし、子どもを持つお母さんからのものも多いしね。

しかし、である。ツルは、このお話を母性愛の寓話として受け取ったことは一度もないんですよね(・・・恩知らずっ!バチ当たりっ!)。基本的に、男女の間の愛情であるにせよ、友人との友情(友愛?)であるにせよ、互いに独立した個々の人格の間に成り立つ感情としての「愛」の側面から読んできたように思う。
何だったら、「boy=親」、「tree=子」と逆転して読むことだってできるはずでしょう。
そのような経験からすると、母性愛のみからこのお話を考えるのは、狭い視野に囚われているように思われてならないんです、ツル的には。つまり、残念なんである。このストーリーこそ、むしろ(今風に言えば)ジェンダーを超越したところで読まないと本質が見えてこない・・・ように思う。
その見地からすれば、もともとは性別に着目しない日本語において、明らかな女性形として訳する必然性があるのだろうか?
外見上というか、客観的・形式的に原文に忠実であればよい、そうあるべきだという考えにはやや与し難い。

そもそも、原文は女性(あるいは母性)と見なす意図に出たものなのか、シルヴァスタインは母性愛を念頭に置いていたのか?彼の他の作品、例えば『The Missing Piece』、『The Missing Piece Meets the Big O』そして大作の画集『Diferrent Dances』などからツルが受けた印象では、とてもそんな単純に一筋縄でいく感じはしないんだけど。
英語って、植物、特に樹木を女性形で表すのって一般的なんじゃないですっけ?(ツルの先入観?)

・「boy」の訳し方についても触れておこう。本田訳では初め「ちびっこ」ででてきて、後に「おとこ」に変わっていく。そう言えばむかし、これを読ませた友人で、「ちびっこって言い方嫌いなんだよね」ていう奴がいたっけ。
一方、村上訳は一貫して「少年」です。ここでも村上訳の方が原文に忠実ですね。全編通してルビが振ってあるのはちょっとウザいけど。

ここはどちらがどうとまでツルは言い切れない。どちらの考え方もアリでしょう。でも、本田訳はここでも十分磨かれていて、読み進むにつれ、「ちびっこ」「そのこ」「おとなになった そのこ」「おとこ」「いまや よぼよぼの その おとこ」と言い換えられていくことが、無二の切なさと陰影を生み出していることは否定できないと思います。

To be Continued...

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