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2011年1月 4日 (火)

シルヴァスタイン:おおきな木 その5

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「The Giving Tree」という英語は極めて翻訳の難しい題名だと思うけれども。だから、各国語でさまざまな訳出がなされているようです。
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・そうなんです。どこもいろいろがんばってるんだよねー。
例えば、イタリア語版は極めてシンプルに「l'albero」、「The Tree」という感じ。

イタリア語版

スペイン語版だと「El Arbol Generoso」、英語にもgenerous(寛大な、気前のよい)という単語がありますね。

スペイン語版

面白いのはフランス語版で、どうやら「L'Arbre au Grand Coeurs」、「L'arbre genereux」という二つの版があるんです。coeursはheartのこと。

フランス語版(1988年版) フランス語版(1995年版)

二つのフランス語版のうち、前者はHila Feilの訳になるもので1973年刊行、なぜか米国のHarperCollinsから出ている。前回紹介した英・和・仏の3冊ボックスセットに入っているのもこれですが、そちらは1988年刊で出版元も日本の篠崎書林なんです。これ以上の詳細はわからないけど。
このL'Arbre au Grand Coeursで不思議なのは、冒頭の献辞が(少なくともツルが持ってる1988年の篠崎書林版では)「Pour Shanna」となっていること。英語版では「For Nicky」なのに。確か、どちらもシルヴァスタインの子供だと思いましたが・・・

ここらへん後者のL'arbre genereuxではどうなってるんだろう、持ってないからわからないんですけどね。
こちらは現在フランスで出回っている版みたいで、1995年刊らしい。Editions de l'ecoleというところから出ているようなんだけど、これってほんとに出版社名なのかなあ。
この表紙には「l'ecole de loisirs」とも書かれていて、これは多分副題だと思うのだけれど・・・(だけどそれはほんとかな)。loisirはleisureのことじゃなかったっけ。

・村上訳だけでなく、本田訳の訳者あとがきも見てみませう。長くなるけど敢えて引用。この訳の指向する深い思索性については、次の一節を避けては通れまい。

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(前略)『自由からの逃走』の著者、エーリッヒ・フロムが、かつて愛を論じたとき(『愛するということ』1956年)、「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」と主張したのを、記憶している人も多かろう。これこそ、この物語に貫流する中心的な思想なのである。しかし、「与える」とはなにか。なにかを断念することか、奪われることか、あるいは喪失することか。いや、そうではないとフロムは言う。「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり、「与える」という行為においてこそ、人間は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる、と考える。一本のりんごの木は、この主張そのままに、ひとりのともだちに、自分の肉体をけずって、木の葉を与え、果実を与え、枝を与え、幹を与え、すべてを与える。母性愛さながらに−。しかも、ここで、もっとも重要かつ微妙な問題は、この「与える」行為に、犠牲の行為を見てはならないという一点であろう。犠牲には悲劇的な感情がつきまとうのが常であるが、りんごの木が、ただひたすら喜びを見出していたことに読者は注目すべきである。すなわち、エーリッヒ・フロム同様、シルヴァスタインにとっても、「与える」ことは、あふれるような生命の充実を意味しているのであって、犠牲的喪失を意味しなかった。こうして、一箇の切株になってもなお「与える」ことを忘れないりんごの木に、言い知れぬ感動があるなら、その感動こそ、「犠牲」ならぬ真の「愛」のもたらすものにほかならないのである。
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うーむ!まさにこの一節によって、このお話は完結するのである。いやー、ごつごつしてますね(いい意味で)。絵本のあとがきでエーリッヒ・フロムの文字を目にするとは思わなんだ。
このあとがきも何度読んだだろう。愛情論、幸福論の根幹に触れるとこまでいっちゃってるんである、ツル的には。

・この本、ツルはいろんな人に見せたことがある。この根底にある思想にすっと乗ってくる人、そうではない人。前者に対して、同じ種を持っているという親近感を抱きやすかったのは確か。後者を受け入れなかったわけではないけどさ。
うーん、今から思えば、この本が人柄をはかる踏絵あるいは試金石になっていた時期があるのだ(と思う)、わたしは。

・ツルは当初、この物語はいかにもキリスト教的な世界観を現したものだと思っていた。上昇する愛、エロスに対するものとしての、下降する愛、アガペ(高校時代の倫理社会の授業みたい)。
でも、ある人から、「この本の説くところは仏教なかんづく般若心経の心に近い」と指摘されて驚いたことがある。
大学を病気休学して福岡に戻っていた頃、高校の友人の家に遊びに行ってこの本の話をしたことがあったんですね。まあ、彼が恋愛関係で悩んでいたってなこともあって。それをたまたま傍らで聞いてた彼の母上が、ツルの話がどうも気になって本屋で探され、いたく感ずるところがあった由。後日ツルの入院先に見舞いに来られて上記の話を伺いました。
このご家庭もちょっとした名家なんだけど、当時不祥事に見舞われたりして、母上は救いを求めておられたところがあるようでした・・・あれも一期一会だったなあ。

To be Continued, Again...

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