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2012年2月

2012年2月26日 (日)

似て非なるもの - 浄瑠璃 vs 義太夫 vs 常磐津 vs 清元

> 「義太夫」は義太夫節のことでつまりは伴奏音楽だけれども、このあたりがやれ浄瑠璃だ義太夫だ常磐津だ清元だとまたややこしそうなので今回は飛ばしてと。
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ここんとこお勉強ネタが続いておりやす。

 

調べてみたら浄瑠璃というのは、三味線を伴奏に「語る」音曲の総称で、主に舞台音楽に用いられた。義太夫や常磐津や清元というのはその中の流派のことなんだそうな。
同じく三味線を用いる舞台音楽でも、「唄う」ものである長唄とは基本から異なる、らしい。

 

「浄瑠璃」の名は、室町中期の御伽草子「浄瑠璃十二段草子」、別名「浄瑠璃物語」に由来する。
これは牛若丸と浄瑠璃姫の悲恋物語で、浄瑠璃姫の名前は、子宝に恵まれぬ両親が薬師如来に願掛けしてついに得た娘であったため、薬師如来の浄土「浄瑠璃世界」に因んでつけたものであった。おおー。
(さらに言えば、「浄瑠璃」とは、仏典にいう七宝にも必ず入っている鉱物の瑠璃、すなわちラピスラズリの清浄 or 透明なものを指すのではなかったかと。一方、玻璃と言えば水晶 or 硝子のことで、「浄玻璃の鏡」は閻魔大王の前にあって人間の生前の善悪所業一切を隈なく映し出す鏡である)

 

これに巡遊伶人たちが音曲をつけ仏の功徳を説いて回ったのが「浄瑠璃」の起源だとか。主に平曲(平家物語)を演じていた琵琶法師たちが新しいジャンルに飛びついたというところもあったらしい。
ここに、中国→琉球と伝わった三線をルーツに持つ三味線が結びついて飛躍的な発展を遂げる。日本に入ったのが1560年前後らしいから、鉄砲公式伝来から10年ほど経ったあたりですか。ちなみに三味線の撥は、琵琶で使っていたそれを採り入れたもので、表現力を高めるため日本で工夫されたもの。
さらにこれを操り人形の傀儡師/くぐつし/かいらいしが伴奏として取り込んでいき、「人形浄瑠璃」と呼ばれる新たな芸能が確立していく。

 

浄瑠璃には古くは河東節/かとうぶし、大薩摩節、一中節/いっちゅうぶしなどなどの流派があり古浄瑠璃と総称されるが、1684年頃、大坂で義太夫節の竹本義太夫が竹本座を開き、近松門左衛門と組んだことにより芸術性を高め、義太夫節と人形芝居が一体となった人形浄瑠璃が完成を見た。ちなみに菅原伝授も千本桜も忠臣蔵も人形浄瑠璃版の初演はこの竹本座です。

 

ということは猿楽や能・狂言とは兄弟に当たることになりそうだ。そのせいかどうか、人形浄瑠璃を歌舞伎より格上と見なす考え方が今でもかの業界には厳然と存する。能狂言と同じですなあ、ハァ。

 

でもね。観阿弥・世阿弥父子が室町三代将軍足利義満の前で猿楽能を演じたのが1375年頃、世阿弥が風姿花伝を著したのが1400年頃。
出雲阿国が北野天満宮で興行して評判を取ったのが江戸幕府成立と同じ1603年、「かぶき踊り」が中心だった女歌舞伎や若衆歌舞伎から現代の歌舞伎劇につながる野郎歌舞伎となったのが1652年。
なんだ、むしろ人形浄瑠璃の方が歴史が浅いとも言えるんじゃないのか??ちょっと意外。
それでもなお歌舞伎の地位が低いとされるのは、河原者とか遊女とか蔭間とか、そのあたりの歴史がstigmaになっているからなのだろうか。

 

浄瑠璃はその後も次々に流派を生んでゆく。京都の一中節から生まれた豊後節は江戸に下って常磐津節・富士松節を生み、前者の常磐津節は江戸歌舞伎の伴奏音楽として隆盛を見たほか、さらに富本節→清元節を派生する。
後者の富士松節は新内節/しんないぶしに発展して門付けを中心に行われるようになる(吉原なんかの「新内流し」っちゅうやつですな)。
うわー、ここまでですでに10種類の○○節のオンパレード!誠に畏るべし、浄瑠璃世界。

 

要するに浄瑠璃の諸流派は、それぞれの創始者の名を冠したいわば名人芸として成立し、次の代にはまた新たな流派が生まれるという流動的な状態だった。
新しいものを生み出すことが重要な役割(目的?)の一つであったり、新しいものを生み出せなければ廃れていったり。歴史や格式よりそっちの方が大事だったのではないか。ああそうか、伝統芸能ではなくて流行音楽だったとは、つまりこういうことなのか。

 

このうち、人形浄瑠璃と不可分の関係になったのが「義太夫節」で、だから歌舞伎のうち人形浄瑠璃から採られた演目(だけ)を「義太夫物」「義太夫狂言」と呼ぶわけだ。
一方、豊後節系の浄瑠璃、特に「常磐津節」、「清元節」は人形浄瑠璃から離れて歌舞伎と結びつき現在に至る。

 

うーん、まだこんがらがりそうだなあと思って見ていたら、ふと気づいた。「人形浄瑠璃」の名称の中に「浄瑠璃」という総称が入っているところが曲者なんだ。「人形芝居」と置き換えて考えるとか、いっそ「人形義太夫」と呼ぶとかすればless confusingのような。

 

人形浄瑠璃を文楽とも呼ぶのは、さらに下って1790年あたりに植村文楽軒が大坂に建てた人形芝居小屋を、明治になって文楽座と称したことに基づいている。劇場(or その創始者)の名前が芸能そのものを意味するようになった次第。
あ、それも正確じゃないか。日本各地に「文楽ではない人形浄瑠璃」も伝わっていますよね、地歌舞伎もある如く。

 

上演形態の違いは内容にも差異をもたらすわけで、義太夫は「歌う」<「語る」の傾向が最も強く、浄瑠璃の「語り物」としての性格が顕著に表れた重厚な芸風である。
人形浄瑠璃の場合、人形(遣い)が「語る」ことはないわけで、状況説明のト書きから科白まで全て義太夫が受け持つことになるから、自然このようになっていったんだろう。言ってみれば音楽つきの朗読、朗読つきの人形劇。
ただし、義太夫節といっても歌舞伎の場合は役者が科白をしゃべるわけだからまた少し別で、この義太夫は特に竹本といったりするらしい。

 

対して、江戸で育った浄瑠璃ではより「唄う」という音楽的要素が強い。艶麗と豪壮と洒脱を兼ね備えた常磐津、これが長唄と接触してさらに洗練され繊細な情趣を追求した清元はいずれも歌舞伎の音曲としてもてはやされたほか、舞台を離れてお座敷芸や素人の習い事にまで広まってゆく。
落語なんかでも艶っぽい常磐津のお師匠なんてのがよく登場しますね。

 

用いられる三味線の種類にもこうした差異は表れ、義太夫では津軽三味線などと同じ太棹で、より低音の力強い響きを特徴とし、太夫の白熱した語りを盛り上げる。このあたりは琵琶の音色をなんとかこの新しい楽器に移そうとした先達の努力の賜物か。
これが常磐津や清元だと中棹、長唄では細棹になる。

 

もちろん、これだけの諸流派の中には廃れていくものもあるわけで、常磐津と清元との中間的な位置にあった富本は昭和に入って事実上の消滅状態。河東節も、現在の歌舞伎では唯一「助六由縁江戸桜」の冒頭(しかも成田屋宗家、市川団十郎 or 市川海老蔵の演じる場合のみ!)にしか使われず、専門の演奏者もほとんどいないため、興行の際にはアマチュアの愛好会の人たちが交代で演じるのだとか。

 

それでもねー、ぶっちゃけ、流派はこれからも減っていくんでしょうね。どれだけの人がこれら各種の浄瑠璃を「これは○○節、あれは△△節」と聴き分けられるのだろう。後継者難とは古典芸能や伝統工芸につきものの言葉ではあるけれど、そもそも需給のバランスが崩れた世界。実はまだ多すぎる、というのが厳しい真実なのかもしれない。
文楽も松竹の撤退(1963年)以後、既に商業ベースでは成立せず政府予算で保っている状態だし・・・

2012年2月25日 (土)

菅原伝授手習鑑につき手習い

> 時代が下って、江戸期に作られた「菅原伝授手習鑑」になると、すっかり「道真=(悲劇の)善玉、時平=悪玉」として描かれ、このイメージが固定化する。
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この演目、どうして題名に「手習」と入っているんだろうかとか、平安時代が舞台の「王朝物」のはずなのになぜ寺子屋が出てくるんだろうとか、前から不思議に思っていた。

仮名手本忠臣蔵ならば、仮名文字のお手本すなわち「いろは歌」の四十七文字に赤穂浪士の数がかけてある。
加えて、いろは歌を1行7文字ずつ書いて行末の文字を拾っていき、いわゆる「沓冠」の「沓」を取れば「咎なくて死す」となって、無実の罪で死んだ(とされた)忠義の士の話と不思議にも符合することは当時よく知られていたらしい。(地下鉄サリン事件〜麻原彰晃逮捕の1995年、√5の覚え方「富士山麓オウム鳴く」との偶然の符合に驚いたのに似てるかも)

菅原道真 vs 藤原時平のいわば公家の政争に、松王丸・梅王丸・桜丸の三つ子の舎人一家(つまり平民)の悲劇が絡むこの話、異例の大当たりを取ったらしい。初演は;
 1746年9月 浄瑠璃 大坂
 1746年10月 歌舞伎 京
 1747年3月 浄瑠璃 江戸
 1747年6月 歌舞伎 江戸

すごいねー、浄瑠璃と歌舞伎がほぼ同時で、しかも半年のうちに江戸に下ってきている。この時代にこのスピード、よほど大評判だったのだろう。江戸の歌舞伎は8ヵ月のロングランだった由。

さらに驚くのは、このころ矢継ぎ早に人気作品が生まれていること。義太夫物の三大傑作とされ今でも上演回数の極めて多い「菅原伝授」「千本桜」「忠臣蔵」が3年連続で初演を飾っている。

義経千本桜
 1747年12月 浄瑠璃 大坂
 1748年6月 歌舞伎 江戸

仮名手本忠臣蔵
 1748年9月 浄瑠璃 大坂
 1749年1月 歌舞伎 大坂
 1749年3月 歌舞伎 江戸

こんなに立て続けとは思わなかった。しかもこの三作、作者がいずれも二代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳(=並木宗輔)のチームだってところがまた凄い(菅原伝授は初代出雲も)。時代の寵児、稀代のヒットメーカー。当時の演劇ファンはさぞや至福の時を過ごしたことだろう。

時代的には、元禄期にライバル関係にあった、井原西鶴(1642年?〜1693年)、近松門左衛門(1653年〜1725年:初代出雲の師匠でもある)の没後数十年。
文化文政期の四代目鶴屋南北(1755年〜1829年)による歌舞伎「東海道四谷怪談」(忠臣蔵の外伝でもある)が1825年に初演されるまでにはまだだいぶ間があるといった時代感。
ちなみに、江戸の歌舞伎作者だった南北を除いてはみな上方の浄瑠璃作者だから、やっぱり浄瑠璃は上方文化だったんだな。

普通、能や狂言、人形浄瑠璃の演目が先にあって、その後歌舞伎がそれを取り入れるというパターンが多いと理解していたけど、どうやらそれは正確ではなかった。
歌舞伎はもともと能舞台で演じられ始めたものだから(つまり、当初は花道もなく、観客席には基本的に屋根のない野外上演だったはず)、室町期に成立した能や狂言から演目を借りてきたり、背景に能舞台同様の老松を描くものがあったりするのは確かで、これがいわゆる「松羽目物」。
一方、人形浄瑠璃すなわち文楽から採られた演目は「丸本物」「義太夫狂言」などと呼ばれ、よりリアルタイム感が強い様子。作家が浄瑠璃脚本を書くのとほぼ同時に歌舞伎化まで進められるシステムが出来上がっていたんだろう。
「丸本」とは人形浄瑠璃のテキストを省略せず丸ごと書いた本のこと。「義太夫」は義太夫節のことでつまりは伴奏音楽だけれども、このあたりがやれ浄瑠璃だ義太夫だ常磐津だ清元だとまたややこしそうなので今回は飛ばしてと。

閑話休題。浄瑠璃は通し上演が多い(らしい)が、歌舞伎は長い脚本の一部を抜き出して舞台にかける方が一般的だから、本作も三段目から「車引」、同じく三段目から「賀の祝」、四段目から「寺子屋」あたりがよく演じられている。
「車引」の舞台となるのは吉田神社(京都大学の裏山の!)。登場人物の性格づけが最も単純明快で、三つ子が松王丸=実事/じつごと、梅王丸=荒事、桜丸=和事と描き分けられているとか、悪玉の藤原時平が強大な権力悪を表す「公家悪」として登場するとかの演出は、観客に大いにアピールしたはず。絶対三つ子には見えないし、「公家荒れ」と呼ばれる藍隈を引いた時平の姿なんてほとんどギャグにしか・・・なのだけど。

公家荒れの藤原時平

ちなみにただの兄弟でなく三つ子の設定としたのは、当時大坂で三つ子が生まれて評判となったという史実を引いている。
名前を松竹梅ではなく松梅桜にしたのは、「賀の祝」の場で、兄弟喧嘩のはずみに菅丞相愛培の桜の木を折ってしまったことから桜丸が切腹することの伏線になっているが、そもそも菅公の好んだ木ならばなぜ梅にしなかったのだろう。

それから、「手習鑑」と呼ばれる所以だが、あまり上演されない初段の中に「筆法伝授」の場というのがあって、能筆家の道真にその奥義を誰かに伝承するよう勅命が下るところから来ている。考えてみればここもちょっと妙な話・・・。
これを伝授される武部源蔵(ここに「竹」が寓意されている)なる人物が寺子屋を営んでいることが後の「寺子屋」の場の新たな悲劇につながっていくわけだけれども、それにしても「菅家筆法」はこのストーリーではあくまで傍流のような気がする。この件りを抜いても成立しそうに思えるのだが。

この歌舞伎が大ヒットしたについては、なんと、江戸市中の寺子屋に対して「割引券キャンペーン」みたいなことをやり、これが当たったところもあるらしい。
当時、寺子屋では学問の神として天神様を祀る習俗があり、平安時代のこの演目に寺子屋が登場するのもそのあたりの連想が働いてのことらしい。時代考証なんて考え方ははなからなかったのかも(笑)

2012年2月22日 (水)

皇后梅の「今」は?

太宰府天満宮の場合、左近の飛梅に対して、右近には紅梅の「皇后梅」(きさいのうめ)というのが植えられている。こちらはぐっと新しくて、大正天皇の皇后が葉山御用邸から移したものなんだとか。

・・・と思っていたのですが。

さるサイトに、「皇后梅のあったところには今は橘が植えられている」と書かれたものがあって、びっくりした。
でも、ネット上でいろいろ調べてみたんだけどどうも真実がわからない。

太宰府天満宮って、ぶっちゃけ商売上手な神さんなので(笑)、たとえ皇室ゆかりの梅が枯れたんだとしたって、それをただの橘に植え替えてそのまんま平気な顔をしてはいまいて、という気もします。むしろ、2代目の皇后梅を予めきっちり準備しといて・・・というわけで。となると橘はショートリリーフなのかよ??

そう言えば、記憶を手繰ると、右近には紅梅が2本あったような気もしてきた。
左近の飛梅に近い方が皇后梅でこれは淡紅、遠い方は特に名前はついてないけど色の濃い鮮やかな紅梅で、むしろこちらの方が人気が高かったような気も・・・。

つまり正殿前に都合3本の梅があることになります、変則的だけど。
もともと、境内に入ってから本殿に至るまでの順路というか参道も、結構変則的な配置になってる気がする、太宰府天満宮って。楠の大木の間を抜けて大回りしていくようなイメージで、それはそれでいい感じなんですけどね。

このあたり、実際に行って確かめないと、現在の状況はやっぱりわからないなあ。ネット情報にはやはり限界があるようで。
つまりはスーパースターの飛梅の前にゃ皇后梅も影が薄いんですw

2012年2月20日 (月)

飛梅(わたしも一夜で飛んでいくと言った)

梅の季節で太宰府とくれば、やっぱり「飛梅」ですね。
菅原道真公左遷の際、京都の邸に植えられていた梅の木が主を慕い一夜にして大宰府まで飛び来たったちう伝説はあまりに有名。「一夜で」ってところが心の琴線に触れちゃうんだよねー。

左近、つまり本殿に向かって右手に植えられている早咲きの八重の白梅で、境内にある梅の木200品種6,000本の中でも一番早く咲く、ことになってます。品種は「色玉垣」だそうな。ま、いくらウメが長寿とは言え、何代目なんでしょうって感じだけど。

通常、御殿などの左近には桜を配するわけですが、もともと御所(の正殿たる紫宸殿)の左近に植えられていたのは梅で、西暦850年前後に桜に改植されてから「左近の桜、右近の橘」が定着したらしい。道真の活躍するちょっと前あたり、ということになるのかな。

菅原道真は漢学の才をもって知られた人だし、一般に「梅=漢、桜=和」だから、梅のイメージと結びつきやすかったんでしょうかね。
梅は好文木という別名もあるから、学問の神様としての菅公のイメージを重ねたところもあったのかも。

この木、上だけ見ると1本の木らしく見えるけれど、根元を見ると明らかに3本なんです。

株元は微妙に弱ってる気も

枝先を地に伏せて根づかせていく「臥竜梅」っていうのも各地にあるぐらいだから、この木も最初から3株なのか、それとももとは1株だったのかは知りませんが。

今年は飛梅も大変開花が遅れたそうで、記録を取り始めた1987年(つい最近やんけって気もしますが)以来、最も遅い2月7日にやっと開花を見た由。やっぱこの冬は九州も寒いんですね(ちなみに福岡市内より太宰府の方がなんぼか寒い感じなんですけど)。「飛梅咲く」は毎年ローカルニュースになるんです。


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飛梅
 作詩・作曲:さだまさし
 編曲:渡辺俊幸
 弦編曲:小野崎孝輔
 歌: さだまさし
 (1977.07.25リリース アルバム「風見鶏」より)


心字池にかかる 三つの朱い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在(いま)
三つ目の橋で 君が転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指

手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出るまでと も一度引き直したね

上りつめたらあとは下るしかないと
下るしかないと気づかなかった
天神様の細道

裏庭を抜けて お石の茶屋へ寄って
君が一つ 僕が半分 梅ヶ枝餅を食べた

来年も二人で 来れるといいのにねと
僕の声に君は 答えられなかった

時間という樹の 思い出という落葉を
拾い集めるのに 夢中だったね君

あなたがもしも遠くへ行ってしまったら
わたしも一夜で飛んでいくと言った
忘れたのかい 飛梅

あの日と同じように今 鳩が舞う
東風(ひがしかぜ)吹けば
東風(こち)吹かば君は
どこかで思い出してくれるだろうか

太宰府は春
いずれにしても 春
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うーん、さだまさしの詞に一番力があった時期の大曲です。ツルは特にファンじゃないけど(むしろどっちかというとタモリ寄り)、やっぱこの言の葉の力は凄い。
ファンの人だったら、太宰府天満宮を訪れて楠の大木の下を通って心字池を抜けて本殿まで歩を進めてゆく、なんて日にゃあこの歌がもう頭の中にぐるぐるぐるぐる鳴り響いて堪らんでしょうなー。

≪太宰府は春 いずれにしても 春≫!

山口百恵「曼珠沙華」(マンジューシャカ)(作詞:阿木燿子 / 作曲:宇崎竜童)にも似ている、風格という点で。

≪あなたへの想い 最後の1行 思いつかない
 どこでけじめをつけましょう≫

そして、(マイナーだけど)絵本「ねじまき鳩がとぶ」by 青山邦彦のクライマックスにも。

≪鳩はこんなにたくさんいるのに!≫

ねじまき鳩がとぶ

2012年2月19日 (日)

天満宮につきお勉強

>2009/09/05
>天満宮も全国に数多いけれども、これは非業の死を遂げたあるいは不遇のうちに死んだ実在の人物を神として祀った、という由来がはっきりしているから、ちょっと別物か。ただ、北野と太宰府のいずれが総本宮なのかという疑問は感じているけれども。
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今年は寒くて梅の開花も遅れているけれど、さて、この時期だからいってみましょうか、天満宮縁起。

ツルの行ってた高校は福岡県太宰府市(当時は筑紫郡太宰府町)も学区に入ってたので、クラスメートには太宰府から通ってる奴もたくさんいました。参道の茶店の息子、なんてのもいたな。その頃は太宰府町の中学には「学業院中学校」と「太宰府中学校」という二つしかなかったはず。でもどっちも圧倒的に歴史を感じさせるネーミング!「太宰府の学業院」なんてもう、ハハア〜とひれ伏したくなる感たっぷり。
初詣や合格祈願も自然と太宰府天満宮に行ってたような気がするし、小さい頃は付属のだざいふゆうえんに遠足に行ったかも。姉の高校の同学年には天満宮の宮司の息子さんもいたんだっけ。
父が亡くなった後、家の錦鯉をここのあやめ池に奉納したなんてこともあって、太宰府天満宮は何だか身近に感じちゃうツルです。

御祭神はいわずと知れた菅原道真公。中流貴族の出であった道真は幼少より秀才を知られ、長じて宇多帝の信任を受け、その第一皇子醍醐帝(またの名を延喜帝)の時には右大臣(左大臣に次ぐ地位)に昇りつめる(899年)。破格の出世です。
しかし左大臣藤原時平の讒言により、宇多帝の第三皇子(道真の娘婿にあたる)を押し立てて醍醐帝の帝位簒奪を図ったとして大宰権統帥/だざいのごんのそちに左遷され(901年)、失意のうちに筑紫で没した(903年)。

思えば、平安時代といっても、遣唐使も停止されてまだ間もない頃であり、摂関政治が頂点に達して国風文化満開となるまでにはまだ1世紀を待たなければならない。ちなみに、更級日記(1020〜1059年)を書いた菅原孝標女は六代目の末裔。
唐は当時弱体化しつつあり、遣唐大使に任ぜられた道真がこの制度の停止を建白したのが「白紙に戻す」の894年(前回の派遣から実に55年が空いていた)、その後907年には唐は滅び、遣唐使も再開されることなく幕を閉じる。そんな時代です。

道真没後、都には疫病や天候不順等の椿事が相次ぎ、菅公の怨霊が朝廷に祟っているとして恐れられることとなった。
まず、政敵藤原時平が39歳で病死(909年)し、その後も醍醐帝の東宮(皇太子)や皇太孫(時平の血筋でもある)が病死する(923年・925年)。

さらに延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)には宮中に雷が落ちるという大事件が起きる。この清涼殿落雷事件は史書にも詳しく書かれており、概略をまとめると;
この年は干魃に悩まされており、この日も雨乞の実施について朝議のため、公卿たちが帝の日常の御座所である清涼殿に集まっていたところ、午後から激しい雷雨となり、雷が清涼殿を直撃し、さらに隣の正殿紫宸殿にも落ちて宮中は大混乱に陥った。結局死者六名を出す惨事となった上、危うく難を逃れた醍醐帝もあまりの惨状に心を痛めて体調を崩し、三月後に崩御する。
とりわけ、胸に雷の直撃を受けて即死した大納言藤原清貫が道真左遷の関係者と目されていた(なんか一千年の昔とは思えんほど生々しい話ですな)ところから、「菅公=雷神」という見方が広まった。もう、単なる事故じゃなくて事件だったわけです、それも超弩級の。

祟りを恐れた朝廷は、道真の名誉回復のため、没後20年に贈右大臣(923年:落雷事件より前)、その後も贈左大臣(993年)、贈太政大臣(同年)と死後贈位を重ねるとともに、都の北野の地に社殿を建てて霊を鎮めようとする(947年)。これが北野天満宮の始まりであるらしい。

ということは、時平が905〜927年に延喜式を編纂していた頃には天満宮ってのはまだ未成立だったのか。そんなのは式外社とは言わないのかな。

ではなぜ、北野の地が選ばれたのか?
もともとこの地に「火雷天神」なる神様が祀られていたらしい。つまりは雷神、というか雷そのものの神格化だったんでしょう。もともと、「天神」とは「天津神」すなわち高天原由来の神を指し(←→国津神)、特定の神を表したものではなかった由。
朝廷は荒ぶる雷神として祟りをなす菅公の怨霊を鎮めるための社をこの地に建てたわけだ。
以来、大きな自然災害が起こるたび、すわ菅公の祟りかと人々は恐れたそうで、よほど猛々しい神として平安期には印象づけられていたものらしい。太政大臣を贈られたのなんて没後百年近くも経ってからですよ。

一方、太宰府天満宮の由来はどうなのか。

北野天満宮の縁起を調べてた時には、こりゃ当然太宰府より古そうだなと思ったんだけど、実はそうでもない。
醍醐帝の勅旨により、道真の御霊を鎮めるため時平の弟仲平が大宰府に下向して社殿を建てたのが919年とされているから、北野よりむしろ古いわけだ。そのころは墓所の名を取って安楽寺天満宮と呼ばれていたんだそうな。

雷神であるがゆえに、天満宮信仰は農耕信仰と結びついて全国に勧請されていったようです。特に西日本に多いそうですが。

その頃はきっと、いたずらした子どもに「そげなわるそうばっかしよったら天神さんの来んしゃるばい」(=そんな悪さばかりしているとあの怖い天神さまが懲らしめに来なさるよ)なんて親が言ったりするような感じだったんでしょうか。今とはまるで違うけど。

鎌倉期に入るとさすがにこうした怨霊としての性格は影を潜め、学者・詩人としての道真のイメージを反映した「学問の神様」となっていく。
時代が下って、江戸期に作られた「菅原伝授手習鑑」になると、すっかり「道真=(悲劇の)善玉、時平=悪玉」として描かれ、このイメージが固定化する。

で、明治4年(1871年)に「太宰府神社」と改名。この時は北野天満宮も「北野神社」に改名されていて、近代社格制度の下(またこれかい)、「宮」の字が皇族を祭神とするものにしか認められなかったため。「天満宮」の名に復したのは戦後の1947年です。

そんなわけで、北野と太宰府、今はどちらも天満宮の総本社ということになってるらしいです。正確にはどちらも「天神信仰発祥の地」という扱いなんだそうな。
福岡県人としてはちょっと安堵、な感じ。

2012年2月18日 (土)

「たかこ」と言えば「貴子姫」、そして吉永小百合

ツル的には、平安時代で「たかこ」っつうと、昔のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年)に出てきた京の姫みこ、「貴子姫」を思い出します。承平・天慶の乱の平将門の恋人の役だったと思う。最期が無残なんですがね、「桜姫東文章」並みに。

演じたのは吉永小百合。きれいでした。子役としてデビューしてからずっとスターであり続ける、言わずと知れた大女優。
20代になると脱清純派の問題や日本映画自体の斜陽、そして自身の年の差婚などもあって露出を極力控えていた印象のあった彼女が、華々しく復帰した作品です。当時31歳。

このドラマの始まる直前、ということは1975年の大晦日の紅白歌合戦に「次回大河ドラマ出演スター」の審査員として登場した時の一瞬の美しさは今でも印象に残っている。シンプルな黒いロングドレスに、白い毛皮の大きな丸いボンボンが一つついただけという衣装まで。C'est chic!

ちなみに本人も「多くの女優が一番酷使され疲弊してしまう20代に身を退いていたのが、結局自分が長続きした理由だと思う」という趣旨のことをインタビューで述べていた。
当時、某週刊誌の表紙を篠山紀信がずっと撮り続けていて、お正月の表紙は毎年吉永小百合。確かそれの40歳頃の表紙に添えられた記事だったと思う。
その中には「40歳を過ぎるといろいろ厳しくなるのでこの表紙も今後お断りするだろう」みたいな発言もあって、確かにそのうち「吉永小百合の表紙の新年号」もなくなりました。
今や御年66歳。

ツルは別に「サユリスト」じゃないし、吉永小百合とともに青春を歩んだって年代でもない。けど、ひょっとしたら年齢的にはサユリスト世代の最後の残光には当たっているのかもしれない。
それは、やはりNHKのドラマだった「夢千代日記」シリーズ(1981〜1984年)の存在があるからです。

胎児被爆した芸者を吉永が演じて高い人気を得たこのドラマ、ツルの学生時代とちょうどかぶってる。
このころに、下宿にテレビを持ってる学生とそうでない学生の割合が逆転した感じではなかったかなあ。持ってる奴はかなり高い割合でこのドラマ見てた気がする。
下宿での一人暮しと、冬の山陰を舞台にした週1回の連続テレビドラマって、相似た雰囲気があったように思うんですよね。だから大学生にも受けがよかったのではないかしら。
ちなみにツルは学生時代にオーディオは持ってたけどテレビやビデオデッキ(これすらもはや死語に近い)は持ってませんでしたが、それが今じゃソレ系の会社に勤めてんですからねえ。

これと同時代というとつい思い出してしまうのが「めぞん一刻」。高橋留美子の80年代王道ラブコメマンガ。主人公の五代裕作とほぼ同年代なんですよね、ツル。

めぞん一刻も夢千代日記も、映画版の評価が低いことは共通している。やれ主演の石原真理子がよくないだとか、吉永小百合と映画版でメガホンを取った浦山桐郎との間に演出を巡って対立があったとかは措いといて。
両方とも、映画というメディアに本質的に向かない作品なんじゃないかと思うんですよね。めぞん一刻はすれ違いラブコメで、読者をやきもきさせる展開は週1の連載スタイルが最適だったろう(あ、初めは月1だったのか)。
夢千代日記も、「どんな出来事が起こるか」なんてことより、森々と雪の降るひなびた温泉街に静かに物語が進行していくという「雰囲気」が最も大切で、映画版はここには失敗しているとツルもはっきり思う。これがうまく出せるのはやはり遅めの時間帯の週1ドラマしかなかったんじゃないかしらん。

いくら大画面で迫力があろうが、2時間1発の映画に凝縮してしまうと、スピリットが揮発してしまう作品もあるのだと思います。(無論逆もあるでしょうが)

2012年2月17日 (金)

絵本「たかこ」が面白い♪

久しぶりにすげー面白い絵本を見つけた。その名も「たかこ」。ふつうの小学校に一人の女の子が転校してきて・・・というおはなし。
ぼくはおしょうがつにもらったおとしだまでかいました(ウソ)

たかこ

このたかこちゃん、十二単を身にまとい、いつも檜扇で顔を隠してるという「平安女子」(゜o゜)
授業中ノートを取るにも墨を磨って筆で巻物に書きつけるは、音楽の時間には縦笛の代わりに琵琶を掻き鳴らすはというマイウェイぶり。笑えます。

最大のみどころというかおかしみは、いつも平安時代の言葉で話すってとこ。「こころやすく ならむ」「あぢきなし」「あはや。かたじけなし」あたりはまだ簡単な方。夜更かしして眠そうに学校に来た朝には「ものがたりを えたり。(中略)はしる はしる これを みるより ほかのことなし」なんて宣うといった具合。
めっきり本格的な古文で、現代語とは意味合いの違う単語も構わず(or 敢えて?)使ってある。現代語訳というか説明チックな文章も最小限に抑えてあって、子ども用に「落として」ない感じ。しかも歴史的かな遣い!「ぢ」と「じ」も書き分けられてるし!

ちょっと変わってるってことでからかわれたりもしますが、そんな時には「らうぜきなり。やすからず」と、扇を手にして男の子を追いかけ回す勝ち気な一面も。
そのうちある出来事が起こるのですが、ここがちょっと劇的で、たかこちゃんカッコいい。「わが うはぎを つかひたまへ」ですけんね、うふふふ。これにはヤラれましたよ。
言葉のことだけじゃなく、襲(かさね)の色目の話なんかも出てきて、オッと思わせます。子どもの絵本で「くれなゐの ひとへ」なんて書いてあるんだぜぇ(笑)つまりは文系エンタテインメント。

作者は文の方が清水真裕(しみず まひろ)、絵の方が青山友美(あおやま ともみ)、ともに女性です。
清水氏は1989年生まれ、わ、若い・・・。お茶の水女子大の学生だそうな。なんでも、出版元の童心社と日本児童文学者協会の共催した「第2回 絵本テキスト募集」(2009年)で、満場一致で優秀賞を受賞した作品なんだとか。

全体を通してのツルの印象は、すごくwell madeというか、(悪い意味じゃなく)優等生的によくできた作品という感じ。これがデビュー作(!)とは思えない手練れ。
「転校生」という伝統的というか古典的というか陳腐になりやすいネタを、姿と言葉は変わってるけどつまりは今どきの子どもと変わりはしないじゃん、というエピソードを積み上げることでうまく料理してある。
そこあたり、ひたすら平安キャラで押しまくる「おじゃる丸」とはちょっと違うわけですね。「人と違っていてもいいじゃないか」というメッセージの込め方も結構clever。
語り手にはクラスメートのふつうの男の子を持ってきて(ここはおじゃる丸とおんなじだ)、本格王朝言葉と現代日本語の掛け合いになってるのも面白いです。この男の子が「たかこちゃん」でも「たかこさん」でもなく「たかこ」と呼び捨てにして語っていくのも心憎い。

転校生の話だから、最後はまた風のようにいなくなるのかと思いきやさにあらず。アンチクライマックスでおだやかに終わるのでちょっと肩すかしを喰らうんだけど、かと言って「みんなと仲よくなりました」な常識的な締め括り方でもない。このあたりも周到に用意されていて、読後感、だんだんいい感じに膨らんできます。

何やら売れ行きもいいらしい。「よい絵本」というと昨今はすぐ「読み聴かせ」なんてことが出てくるんだろう(それも微妙に気持ち悪いが)けど、誤解を恐れずに言えば、この絵本は、読み聴かせで最大の魅力を発揮するわけじゃない。そこんところがまた特長だと思う。
子どもって、変わった言葉とか珍しい古語とか使ってみるのって結構好きですよね、意味なんかわからなくっても。まあ、子ども時代なんて、そもそも意味のわからない言葉の方がずっと多いわけだし(子どもの世界は昏いのだ)。
その意味で、自分で(声に出して?)読むのが一番楽しいように思います、この本は。
もちろん、親に「この言葉、どんな意味?」って尋ねるっていうコミュニケーションも楽しそうだけど。
ネット上の書評では、若いお母さんなんかだと「わたしも意味よくわからないわ」ってこともあるみたい。でもそれでいいと思うんだよね、子供に訊かれて答えられなくても。なんとなくストーリーがわかって、あとは言葉の響き楽しんでれば。

2012年2月13日 (月)

ああ、母親の命日が彼女の命日とかぶるなんて

2012年2月11日、Whitney Houstonが亡くなりました・・・残念です。

ツルの大学時代、まさに彗星のようにデビューしてさ・・・あまりに歌うまいので、ジャケット写真のこのヒト↓、絶対本人ぢゃないと思ったものです(アメリカ版ではジャケ写まるで違うんですけどね)。

そよ風の贈りもの

この1985年のデビューアルバム「そよ風の贈りもの」は割とオムニバスに近いところがあったので、「次のアルバムが待ち遠しい!」の最右翼だったよなー、学生時代のツル的には。

Bobby Brownと結婚して、あげくにDVやら薬物依存やらのスキャンダルにも見舞われたけどさ。まだ死んでいい人じゃありませんでしたよね、絶対。マジめっきり同年代だったんですけど・・・・・・

2009年のアルバム、「I look to You」で見事復活を飾ったと思っていたのに。

やっぱ、Juliana's TokyoやVerfarreが懐かしいです、ツルは。

あっ。ツルの母親が死んだのは1984年だから、彼女のデビュー前だったんだ!!意外。時はこんなに流れたんですね・・・

従姉妹のDionne Warwickのコメントもほしいなあ・・・

2012年2月11日 (土)

あ、今日は母親の命日だ。

1984年に亡くなったからいわば二十九回忌ってことになるわけか。はー。

母は俳句を詠んでいた。いわゆる現代俳句と呼ばれるもの。同人にも所属して結構熱心にやってて、句集も「邂逅」「花柊」の2冊ある(後者は遺句集ですが)。全国女流俳句大会だかなんだかで二席に入ったこともあったらしい。

母の句から一応代表句となっておりマスものをちょっとご紹介。


虹二重双生児のわれら誰から死ぬ

黒き凧見つけて天に歩み寄る


「虹二重」の句は作者が双子の姉妹(の姉)だったからこそできたわけですが、強い力を持った句ですよね。ちなみに片割れの妹の方(つまりツルから言えば叔母)は今も存命・・・この叔母はこの句のことがお好きではないんだけど。でも、先に死んだのがこの句を作った方でよかった気もします・・・・・・

「黒き凧」の句も、こちらまで一歩大きく歩み出してしまいそうなスケールを確かに感じさせる。
母の葬儀の際、会葬御礼の葉書にこの句を刷り込んだんですね。実は父が選んだのは虹二重の句だったので、それにツルも含めて子供たちが猛反対し(だって双子の片割れがどんな風に思うんよと)、じゃあそう言うなら他のをお前たちが選び出せってことで、超特急で句集の頁をめくってこの句に差し替えた次第。あれは焦ったなー、時間が限られてたし。ぴったりの句を選び出せたとは思いますが(手前味噌)。
その時長姉が「黒き凧の句は確か昔同人誌の俳句カレンダーにも選ばれてたと思うわ」と言い出した。へっ!?何それ?聞いたことないよそんなもん。どうやらある年、所属していた句誌で、同人たちの句を毎月一句ずつ入れて絵を添えた、葉書サイズのカレンダーを作ったことがあったらしい。
探したら、確かにありました!それがこれです↓

黒き凧

おお、新珠の歳の初めの1月やんけ!巻頭句状態。お正月らしく金地で華やかに。
1964年かー、東京オリンピックの年だ、ツルが知らんはずやわ(残念ながら生まれてっけど)。今年と同じく、辰年だったんですね。

2012年2月10日 (金)

遠い海の記憶 そして つぶやき岩の秘密

鎌田敏夫関連でもう一曲まいりましょう。

前回も書いたとおり、この人の作品では、音楽が大きな役割を果たしていることもまた異論のないところだと思う。

「サインはV」の「♪V・I・C・T・O・R・Y サインはV!」でしょ、
「飛び出せ!青春」なら「♪君は何を今見つめているの 若い悲しみに濡れた瞳で」、
「われら青春!」なら「♪悲しみに出会うたび あの人を憶い出す」でしょ、
「金曜日の妻たちへ」になると「♪もしも願いが叶うなら 吐息を白い薔薇に変えて」だし、
「男女7人夏物語」だと「♪YOU あなたらしくもない しくじったぐらいで」・・・
ホラ、どれも主題歌、浮かんでくるでしょ?(若い子は知らんか

ツル的にここに一つ加えたいのは、NHK少年ドラマシリーズの一つ、1973年に放送された「つぶやき岩の秘密」です。

つぶやき岩の秘密 DVD

お話は、幼い頃に両親を海で亡くした少年(原作では小学6年の設定)が、旧日本軍が地下要塞に隠したと伝わる金塊にまつわる秘密と、両親の過去の不慮の死の謎を追っていくというミステリー仕立てです。謎が解き明かされていく中、孤独な少年は出会いと別れを通し、少年の日々と訣別して大人の入り口に立つ。全6回。

でも、このドラマの本当の主役は「海」かもしれない。全編にわたって、昼間の海、満月の夜の海、夕焼けに輝く海、ギラギラと油照りに照り返す海、暗く時化た海と、「海」が様々な表情で魅力的に登場します。
主人公が舟を櫂ではなく艪で漕ぐシーンなども出てきて、たまたま横で見ていた父が「お、懐かしいな、和船を艪で漕ぐのは難しいんだぞ」なんて言ってたことが思い出されます。

オールロケで三浦半島の三戸浜で撮影され、舞台となった海辺の断崖の別荘(「白髭さん」のね)なども最近まで建っていたそうだし、岸壁には今も撮影当時のハーケンやカラビナ(ロッククライミングのシーンがあるんです)が残っているそうな(@_@)
ファンがロケ地を尋ねたブログなんかがネット上に結構あります、今でも。

この作品、フィルムによる撮影だったせいか、NHKには珍しく元映像が残されていて、DVDも出ているのは幸せなこと。ツルは大人になってからこの作品を再び観ることができた時、ほんっと生きててよかったって思いましたもん。

原作は新田次郎(1912〜1980年)の同名小説。「八甲田山 死の彷徨」「孤高の人」など山岳小説で知られた人ですが、本作は珍しく海を舞台にしたもの。新潮少年文庫というハードカバーのシリーズの中の一作でした。1972年1月刊行だから、その翌年の春のドラマ化というのはかなり早いペース。実はツルはこの単行本持ってるんですわ、ドラマを見た後に買ったんだけど。今も目の前で久しぶりに開いてる。やっぱ宝物だな。
新潮社のこのシリーズ、ジュブナイルとして子ども向けに当代の人気作家が書き下ろしたもので、他にも星新一とか三浦哲郎とか、相当豪華な顔触れ。三浦哲郎の書いた「ユタとふしぎな仲間たち」はその後劇団四季でミュージカルに仕立てられて有名になりました。

そうそう、この本の装丁と挿絵は司 修(つかさ おさむ)(1936年〜)が手がけてるんだよね。今や装丁の第一人者、大江健三郎の著書なんかも多く手がけてる人。作家・エッセイストでもあり、芥川賞候補になったり、川端康成文学賞を受けたりもしている。昨年も「本の魔法」という著作で大佛次郎賞を受賞しました。「つぶやき岩の秘密」が出た時には36歳だったんですね。今は御年76歳か。あ、1937年生まれの鎌田敏夫とは同年代なのだな。

新田次郎って、実は繊細な表現をする人だという印象をツルは持っているんだけど、そこを最大限活かしながら鎌田敏夫がドラマ化したわけ。このころからやっぱり「神奈川」だったんですね(原作も三浦半島が舞台ですが)。
でも、ツルは大人になって再びこの作品に出会うまで、鎌田氏が脚本を書いていたこと、知りませんでしたけど。

で、本題のドラマ音楽のこと。
このドラマを知ってる人なら必ず口にするのが「音楽が印象的だったよねーーー」ということ。本当に!
主題歌「遠い海の記憶」は石川セリ(井上陽水の奥さんです)が歌っている。すごく好きだったなー、この歌。同時代のアニメ「海のトリトン」の音楽全般(Fusionの大家、鈴木‘コルゲン’宏昌が担当してる!)と同じくらい好き。
あ、海が舞台ってことも、少年期の出会いと別れを描いたという意味でも、この2作品は確かに似ているな。

最終回のラスト、金塊が鈍く光りながら波間に揺らめいて海底深く沈んでいく映像から、そのままこの歌の流れるエンディングに入っていく一連のシークエンスの美しさにはもう鳥肌が立ちます(この結末は原作とは少しばかり変えてありますが)。Youtubeにも出てますよ。

作曲は当時「ステージ101」などでNHKの子飼いだった樋口康雄(ピコ)。一方作詞がちょっと変わっていて、作詞には素人だった同番組のAD、井上真介氏。
確か、レーザーディスク版のライナーノーツだったと思うけど、ご本人がいきさつを書いていて、ミステリー仕立てのこのドラマの主題歌を作詞する羽目になり、アパートに帰ってこのお話に合う歌詞を書こうとしたものの、考えれば考えるほど言葉が浮かんでこない。焦るうちに日にちばかりが過ぎていって締め切りも迫った頃、ストーリーから離れて自由に書いてみようとふと思った時に、自分が子供時代を過ごした故郷宇和島の海のことがまざまざと思い出され、一気に書き上げたと。そして樋口康雄により曲がつけられ、レコーディングの日。自分の予想を遥かに超えた素晴らしい出来映えに鳥肌が立ったそうです。オンエアされるや、「あの曲は何?レコードになってるの?」という問い合わせが殺到したとか。「そして私は生まれて初めてファンレターというものをもらった。」と締め括られていました。
実はこの方、ADなんだけど本作では出演もしているんです、「水死体」の役で。重要な役なんですよ(笑)

この曲はその後アレンジに手を加えて彼女のアルバムにも収められている。またこちらの編曲もいいんだよねー、はー。寄せては返す波のような長ーいイントロから始まって、繊細にして流麗なメロディが流れます。そして、アドレサンスの輝く憂愁に満ちたこの歌詞も・・・↓

-----
遠い海の記憶
 作詞:井上真介
 作曲:樋口康雄
 歌: 石川セリ

いつか思い出すだろう
大人になった時に
あの輝く青い海と
通り過ぎた冷たい風を

君を育み見つめてくれた
悲しみに似た風景
追憶の片隅で
そっと溶けてしまうのだろう

今だ 見つめておけ
君のふるさとを
その美しさの中の
ほんとの姿を

いつか思い出すだろう
大人になった時に
あの輝く青い海が
教えてくれたものは
何だったのだろうと・・・
-----

今、こんな完成度の高い子供向けのドラマなんてないですよね・・・アニメは別として。人形ドラマ、「新・八犬伝」なんてのもみーんなが見てたなあ。僕らの世代って、恵まれていたのかな。

いつか大人になって思い出す、あのころの遠い記憶。今でも海は別れ難く好きです。

2012年2月 9日 (木)

接吻 kiss

そう、あの時は磯子に住む人と付き合っていたんだ・・・・・・・・・・・・

1993年、Original Loveの「接吻 kiss」が流行っていたころ。日本テレビ系のドラマ「大人のキス」の主題歌です。

ドラマの方は、吹雪ジュンの離婚した旦那が柴田恭兵、黒田福美のやはり離婚した旦那が石田純一、ここに絡んでくるのがデビューしたての深津絵里だったと記憶しています。
筋もあらかた忘れてしまったけれど、吹雪ジュンが「この磯子の家で一人ぼっちで年を取っていくのなんて耐えられないの」と訴えるシーンと、黒田福美が二言目には別れた旦那のことで「このバカタレはねえ」と啖呵(?)を切る場面とが今も鮮明に残っている。
苦しい恋に狂っていたからかもしれません、5年ほどにもわたる間。
吹雪ジュンって、アイドルだったころはかなりキライだったんですが、大人の女性になってから好きになりました。
黒田福美はアクの強い女優さんって感じだけど、この作品で好きになった。最近はすっかり韓流おばさんになっちゃってワケわかんなくなっちゃいましたが・・・(笑)

非常に感覚的な台詞の応酬と、音楽の魅力が最大限に活かされたストーリー展開は、脚本の鎌田敏夫ならではのもの。

脚本家、鎌田敏夫。早期のキャリアには、1969年の「サインはV」とか(岡田可愛と氾文雀のよ!!坂口良子のじゃないんだよ!!)、70年代の「飛び出せ!青春」「俺たちの旅」などの村野武範〜中村雅俊あたりが主演した一連の青春ドラマがある。80年代になると「金曜日の妻たちへ」で再度社会現象を巻き起こし、その後「男女7人夏物語」に始まるシリーズも大ヒットしましたね。

どうでもいいけど、ツルは社会人になった頃、横浜市緑区の東急「たまプラーザ」駅近くにあった会社の寮に住んでました。たまプラといえば、「金妻」で一気にメジャーになったエリア。でも、文化不毛の土地だなと思ってましたけどねー(そんなこと言ったら二子玉川だって似たようなもんか)。

21世紀になってからのキャリアとしては、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」があるけど、残念ながら、黒澤明の映画「七人の侍」との類似が裁判沙汰になっちゃいましたね。

この人の作品にほぼ共通して言えるのは、「神奈川」にこだわってるってとこ。それは異論のないところでしょう。上記の「磯子」も横浜市にある。

で、「大人のキス」の主題歌「接吻 kiss」のこと。Original Loveの5番目のシングル。前月から始まったこのドラマの主題歌としてヒットしました。
今でもオリラブ(オリラジじゃないよ)の曲で一番好きって人は多いんじゃないでしょうか。
ツルが一番好きな歌詞は「灼けるような 戯れの後に 永遠に独りでいることを知る」です・・・・・・ああ。

Original Loveってのも変遷の多いグループで、確か5人でスタートして、だんだん抜けていって、1995年8月にはとうとう田島一人のソロユニットになってしまっている。田島氏ってピチカートファイブにもいたって知ってた?

その田島氏曰く、この歌は「歌っていて一度も恥ずかしいと思ったことがない」と。じゃ、逆に歌っててこっ恥ずかしいと思うラブソングもあるんだね、やっぱり^_^;

昨年10月、目黒区自由が丘の「女神まつり」のトリとして出演した際も当然この歌は歌ったとか。生歌聞きたかったなあ。あの艶やかに色気ある歌声を。(もっとも、最近はすっかり歌い崩してらっしゃるようですが。常に姿を変えていく、彼もまた音楽界の怪人か)

-----
接吻 kiss
 作詞・作曲:田島貴男
 歌・演奏:Original Love
 (1993.11.10リリース)

長く甘いくちづけを交わす
深く果てしなくあなたを知りたい
Fall in love
熱くくちづけるたびに
やけに色のない夢を見る

ああ どこか物足りない今日は
あなたの 濡れた眼差しが嬉しい
いつの間にか 枯れ葉色のtwilight
子供のよに無邪気に欲しくなる

長く甘いくちづけを交わす
深く果てしなくあなたを知りたい
Fall in love
熱くくちづけるたびに
痩せた色のない夢を見る

Night flight 瞳 移ろうよに甘く
あなたの素肌 冷た過ぎて苛立つ
灼けるような 戯れの後に
永遠に独りでいることを知る・・・

長く甘いくちづけを交わそう
夜が全て忘れさせる前に
Fall in love
きつく抱き締めるたびに
痩せた色のない夢を見てた

甘いくちづけを交わそう
夜が全て忘れさせる前に
Fall in love
きつく抱き締めるたびに
やけに色のない夢が続く・・・
-----

あの人は今も元気でいるのだろうか。もうきっと、会うこともメールを出すことも二度とないけれど。

親がいつか死ぬ時、一晩中ずっと一緒にそばにいてくれるのはきっとあの人のはず、だった人・・・そうであってほしかった。幸せの骨頂の最中にいつも別離の予兆が忍び込むのを感じていた人。大人の恋の怖さを教えてくれた人。

2012年2月 6日 (月)

下丸子と武蔵新田でイベントが!?(つづき)

(承前)

で、昨日午後、やっとお外に出られるようになりまして、生きるための一歩を踏み出した(つまり食料の買い出しに及んだ)ところが、お向かいさんが微妙に賑やかな感じになっていることに気づきました。幟なんか立っちゃっててさ↓

微妙に賑やか、徒歩3秒

途端に思い出しました。あっ、今日やったんか!
パネルなんかもちょっと出してあったりする。

慌てて撮ったらパネルの前にクソババアがっっ!

その場に貼られていたポスターを改めて見たら、本日1日限定やんなに?5時まで?もう3時だ

見学者も三々五々ペースでそこそこ絶え間なく入っている様子。この辺りは決して人通りの多いところではないので、そこを考えると大健闘な感じ。ていうか、ぶっちゃけ狭い仕事場、ちょっと入れない状態になってきてるし・・・

だんだん思い出してきた。駅近くで「まちなか工場カフェ」をやってるんだ。ポスターの地図で場所確認、でもそのあたりにオープンカフェやれそうな場所なんてあったっけえ?

地図

で、時間が限られていることもあり、病み上がりの身体に笞打って、杖をつきつきカフェの方へ先に参りました(一部脚色)。

まちなか工場カフェ

あ、ここを利用したのか!いつも前を通るのに、足を踏み入れたことがなかった袋小路。
何でも、参加工場の作った業務用の焼きそばを焼く機械を使って、「大田汐焼きそば」を出してるんだとか。
考えましたね。今や大田観光協会イチオシの新たなB級グルメ、「大田汐焼きそば」が食べられるんですよ!!大田区ゆかりの10種の食材の入った塩焼きそばなんですよ!!そこのアナタ、大田区グルメと言えば蒲田の羽根つき餃子でしょ、なんて今どき言ってては時代に乗り遅れます(その言いぐさが既に乗り遅れとる)。なぜ餃子に続いて今度も中華系なんだ、という至極真っ当な疑問はさておいて。

まだ食欲も普通じゃないツル、今回焼きそばは遠慮して横っちょの工場を慎ましく見学し、ガチャガチャ1回300円也を回して携帯ストラップをゲットしてとっとと退散。
若い人たち、楽しそうに盛り上がってました。こうした今風のイベントって、どこかの大学が噛んでる場合が多いけど、どこなのかなー。

生きるための買い物を速攻で済ませ(げ、コーヒー豆買いそびれた)、家に戻って買った品々を玄関先にぶちまけるや否や(卵は買ってない)再びお向かいの工場へ(一部脚色)。残り30分。

ここは金属加工の会社です。ファサード(なんて小じゃれたものではさらさらないが)のところでは何種類かアルミの小さな独楽が置いてあって、ま、これは本日のためのネタなんでしょうが、「初めこのデザインで作ってみたら頭が重過ぎて回らない、そこでここをこうして、次はここをこうして、最終的にこんな形になりました」的な説明が。ベアリングつきの独楽も単純に面白かった。ベアリング部分にエアーを当てて回しておいてそっとテーブルに置くと本体ごと回り出すわけですね。あ、昔あった地球ゴマだっけ、宇宙ゴマだっけ、あれ欲しかったなー。今でもあんのかな。

で、中へ。やっぱ、狭いとは言えいろいろハイテク感たっぷりなロボットが置いてありまして。ン千万はするげな。で、アルミの無垢材を削っていって独楽(より複雑な形のやつね)を作っていくところなんぞを説明しながら実演してくれるわけです、若い(20代前半ってとこかな)お兄さんが。通常は液体の流量計の部品なんかも作ってらっしゃるそうです。
「どのくらいの精度までいけるんですか?」と尋ねたところが、「この機械だと1万分の1ミリまで出ますね」とのお返事。こんな小さなところでも(失礼!)、そのくらい当たり前なんですね。あ、もちろんコンピュータ制御なわけですが、それで全てが済むよなお仕事じゃありますまい。


そもそもこのイベントに興味が湧いた理由はもう一つあります。

ツルの年若い友人が、栃木・群馬の県境に当たる渡良瀬川流域で「ワタラセ・アート・プロジェクト」なる現代美術の活動をやっていて。
宣伝を兼ねて概略を説明すると、関東の芸術系大学の学生/院生を中心とした若手アーティストの集まりで、渡良瀬地区に一定期間滞在して制作を行う(いわゆるArtist in Residence)とともに、ここを走る第三セクターの鉄道「わたらせ渓谷鐵道」愛称「わてつ」沿線の各地で古い家屋や商店を借りて作品の展示を行うというものです。(だいたいは合ってるかな?汗)

単純にすごいなと思うのは、いろんな展示会場を彼ら自身で見つけてきてるということ。
たとえば、わてつの終点近くには銅山で知られた足尾(今や栃木県日光市(@_@)の一部)があるんですが、鉱夫の人たちとその家族の社宅(長屋タイプが多いようです)が銅山閉山後は市営住宅になったりしている、そのうち人の住んでいないところを借りて展示に使わせてもらうといった具合。あるいは、閉めてしまったマンガン工場の倉庫だとか、地元のお醤油屋さんの古い醸造蔵だとか。現に使われている銭湯の壁に絵を描かせてもらったりなんてのも。駅そばに置かれている古い車両を借り受けて「キャンピング・トレイン」としてお客さんを泊めたり(ツルも泊まりました)、その横でオープンカフェをやったりという企画もありました。
もちろん野外作品もあり。休耕農地の真ん中に突然萌え系イラストが見えてきたりなんてことも。

町なかを(あるいは郊外を)歩いていて気に入った場所があると、そこら辺の人に話を聞いたりして所有者と交渉するなんてところから始めたそうです。そのうちだんだん人脈ができていって今に至ると。
あ、展示場所だけじゃないや、アーティストたちの滞在場所も同じような経緯なんだ。

閑話休題、町なかの普通の建物をオープンにしちゃうというところぐらいは共通してるかなと感じた次第。で、この友人にも知らせなきゃと思ってたところに風邪ひいちゃったんだよなー。幸いちょうど都内に出てきてたので急遽伝えると、ちょっと見にきたようです。

ちなみにこちらのイベントの実行委員会は、モノづくり観光研究会×大田観光協会となってて、横浜国立大学(え?)、首都大学東京、東京大学が絡んでいるらしいことが判明。(今年が何回目なのか、今までどのエリアでやってたのかなんてあたりは不明ですが)

返す返すも残念だったのは、体調不良に伴ってほとんど棒に振ったこと。まあ、仕方がありません、マジ記憶飛んじゃってたし。でも、ご近所さんのことをちょっとでも知ることができたのはよかったかなと思います。来年はどこでやるんだろう?

2012年2月 4日 (土)

下丸子と武蔵新田でイベントが!?

やっとこさ風邪から復活中のツルです。まだ息がちょいとぜぇぜぇひゅぅひゅぅいったりしてますが、熱はすっかり下がりました。
あ、まだ味覚がダメですね、高熱で味蕾が全部死んじゃいましたって感じで。

そんな風邪をひく直前、近所のそこかしこに、あるポスターが貼り出されてることに気がついてました。微妙に地味ながら・・・

ほれ、商店街の掲示板に・・・↓

ポスター1

町工場の窓に・・・↓

ポスター2

床屋さんの脇の電柱に・・・↓

ポスター3

ドラえもんも応援してるし(?)↓

ポスター4

果てはシャッターのいつも下りてる工場にまで(をいをい)・・・↓

ポスター5

おおたオープンファクトリー??なになに?
どうやら年に一日(だけ)、町工場を解放してみんなにみてもらい、大田区の誇る「町工場」をアピールしようというイベントだそうな。で、東急の下丸子駅界隈と武蔵新田駅界隈(隣接駅です)で開催されるってことらしい。何でも約20工場が参加予定とか。

このエリア、確かに小さな工場多いんです。ちなみに準工業地域。ツルの住むマンションだって、もとは町工場が建ってたところの跡地にできたもの、バブルの最後期に。町工場→マンションというお決まりのパターンで。

で、近寄ってみて気づいた。「あれ!?この写真、うちのマンションの真向かいのとこじゃん!あそこも参加するの!?(あそこ、何か作ってるんだ、今でも。でも何を?)」

ツルは引っ越してきて10年余りになりますが、そういうことってなかなかわからないもの。「○○製作所」とか「□□工業」とかの控え目な看板だけではね。新住民のマンション族と、元からの住民(?)町工場との間にはほとんど交流もないことだし・・・

そんなこんなでちょっと興味を惹かれました。

ところが、ツルも何分風邪でダウンしちゃったもので、いささかこのイベントの件は記憶から飛んじゃっていたのです。

あー、ここまで打つのも疲れるわ、てな感じでTo be Continued...

2012年2月 3日 (金)

沖縄防衛局って

このところ、沖縄防衛局長真部某氏の「講話」問題がメディアを賑わわせている。
一体、家族まで呼びつけてどんなありがたいお話を宣うたものやら。

でも、ツルの心の琴線に触れたのはそこじゃあない。「沖縄防衛局」なる名称なんですよ。

普通さー、「地球防衛軍」とか言ったらさぁ、「地球を」「衛る」「軍」のことでしょうよ。
でもこの場合は明らかにそうじゃない、よね?

調べてみたら、防衛省の地方支分部局(つまりは「国の出先機関」ちゅうやつね)として、このような「地方防衛局」は全国に8つある。「南関東防衛局」とか「九州防衛局」だとあまり疑問も感じないのにね。

2007年9月に、防衛施設庁の防衛施設局と、防衛省の装備本部の地方支部を統合して生まれた機関、なんだとか。だから沖縄のは昔「那覇防衛施設局」だった由、これはこれでおかしくない。

ちなみに2008年4月にはなぜか那覇から嘉手納に移転している!全国の地方防衛局は全て県庁所在地にあるのに・・・やっぱり「沖縄を」「衛る」「局」ではなさげ。
これに伴ってできた「那覇防衛事務所」ってのにも笑えますが。

風邪で休んだ日の朝焼け

やられちゃいました、風邪。一昨日、どうも喉が痛くて咳も出るなあと思いつつ仕事から帰ってきたのですが、その時点で既に体温38度超え。夜中には39度2分までいっちゃいました。ふはー

夜通し、譫言を言ってた記憶があるんよ。「何か言いたいことがあって、それを口にしてるんだけど、口(舌?)の筋肉は半分眠っててうまく動かず、うにゃうにゃうにょうにょ言ってるだけで言葉の体をなしてなくて、誰にも聞き取れないだろう、でも既に言語野のコントロールは利かなくなってて意味不明の何やらをうにゃり続けている」て感じの、まさに高熱に浮かされた譫言。客観的に考えるとこわー。それを記憶してるってのもまたこわい。

で、昨日は休みを取って寝てました。

今は熱もだいぶ下がって、それでも38度5分あたりからなかなか落ちない。解熱剤使えば37度台にはなるんですけどね。頭もまだ痛くて仕事が手につきそうにない。こりゃ今日も休みだな。
インフルエンザではないみたいだけど。

ずっと寝てるので時間の感覚も狂っちゃった。画像はついさきほど、今朝6時16分の下丸子界隈。少しはクリアになってきたツルの頭ん中と同じく、クリアな夜明けです。黎明シリーズNo.05、認定。

午前6時16分の空

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