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2012年2月19日 (日)

天満宮につきお勉強

>2009/09/05
>天満宮も全国に数多いけれども、これは非業の死を遂げたあるいは不遇のうちに死んだ実在の人物を神として祀った、という由来がはっきりしているから、ちょっと別物か。ただ、北野と太宰府のいずれが総本宮なのかという疑問は感じているけれども。
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今年は寒くて梅の開花も遅れているけれど、さて、この時期だからいってみましょうか、天満宮縁起。

ツルの行ってた高校は福岡県太宰府市(当時は筑紫郡太宰府町)も学区に入ってたので、クラスメートには太宰府から通ってる奴もたくさんいました。参道の茶店の息子、なんてのもいたな。その頃は太宰府町の中学には「学業院中学校」と「太宰府中学校」という二つしかなかったはず。でもどっちも圧倒的に歴史を感じさせるネーミング!「太宰府の学業院」なんてもう、ハハア〜とひれ伏したくなる感たっぷり。
初詣や合格祈願も自然と太宰府天満宮に行ってたような気がするし、小さい頃は付属のだざいふゆうえんに遠足に行ったかも。姉の高校の同学年には天満宮の宮司の息子さんもいたんだっけ。
父が亡くなった後、家の錦鯉をここのあやめ池に奉納したなんてこともあって、太宰府天満宮は何だか身近に感じちゃうツルです。

御祭神はいわずと知れた菅原道真公。中流貴族の出であった道真は幼少より秀才を知られ、長じて宇多帝の信任を受け、その第一皇子醍醐帝(またの名を延喜帝)の時には右大臣(左大臣に次ぐ地位)に昇りつめる(899年)。破格の出世です。
しかし左大臣藤原時平の讒言により、宇多帝の第三皇子(道真の娘婿にあたる)を押し立てて醍醐帝の帝位簒奪を図ったとして大宰権統帥/だざいのごんのそちに左遷され(901年)、失意のうちに筑紫で没した(903年)。

思えば、平安時代といっても、遣唐使も停止されてまだ間もない頃であり、摂関政治が頂点に達して国風文化満開となるまでにはまだ1世紀を待たなければならない。ちなみに、更級日記(1020〜1059年)を書いた菅原孝標女は六代目の末裔。
唐は当時弱体化しつつあり、遣唐大使に任ぜられた道真がこの制度の停止を建白したのが「白紙に戻す」の894年(前回の派遣から実に55年が空いていた)、その後907年には唐は滅び、遣唐使も再開されることなく幕を閉じる。そんな時代です。

道真没後、都には疫病や天候不順等の椿事が相次ぎ、菅公の怨霊が朝廷に祟っているとして恐れられることとなった。
まず、政敵藤原時平が39歳で病死(909年)し、その後も醍醐帝の東宮(皇太子)や皇太孫(時平の血筋でもある)が病死する(923年・925年)。

さらに延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)には宮中に雷が落ちるという大事件が起きる。この清涼殿落雷事件は史書にも詳しく書かれており、概略をまとめると;
この年は干魃に悩まされており、この日も雨乞の実施について朝議のため、公卿たちが帝の日常の御座所である清涼殿に集まっていたところ、午後から激しい雷雨となり、雷が清涼殿を直撃し、さらに隣の正殿紫宸殿にも落ちて宮中は大混乱に陥った。結局死者六名を出す惨事となった上、危うく難を逃れた醍醐帝もあまりの惨状に心を痛めて体調を崩し、三月後に崩御する。
とりわけ、胸に雷の直撃を受けて即死した大納言藤原清貫が道真左遷の関係者と目されていた(なんか一千年の昔とは思えんほど生々しい話ですな)ところから、「菅公=雷神」という見方が広まった。もう、単なる事故じゃなくて事件だったわけです、それも超弩級の。

祟りを恐れた朝廷は、道真の名誉回復のため、没後20年に贈右大臣(923年:落雷事件より前)、その後も贈左大臣(993年)、贈太政大臣(同年)と死後贈位を重ねるとともに、都の北野の地に社殿を建てて霊を鎮めようとする(947年)。これが北野天満宮の始まりであるらしい。

ということは、時平が905〜927年に延喜式を編纂していた頃には天満宮ってのはまだ未成立だったのか。そんなのは式外社とは言わないのかな。

ではなぜ、北野の地が選ばれたのか?
もともとこの地に「火雷天神」なる神様が祀られていたらしい。つまりは雷神、というか雷そのものの神格化だったんでしょう。もともと、「天神」とは「天津神」すなわち高天原由来の神を指し(←→国津神)、特定の神を表したものではなかった由。
朝廷は荒ぶる雷神として祟りをなす菅公の怨霊を鎮めるための社をこの地に建てたわけだ。
以来、大きな自然災害が起こるたび、すわ菅公の祟りかと人々は恐れたそうで、よほど猛々しい神として平安期には印象づけられていたものらしい。太政大臣を贈られたのなんて没後百年近くも経ってからですよ。

一方、太宰府天満宮の由来はどうなのか。

北野天満宮の縁起を調べてた時には、こりゃ当然太宰府より古そうだなと思ったんだけど、実はそうでもない。
醍醐帝の勅旨により、道真の御霊を鎮めるため時平の弟仲平が大宰府に下向して社殿を建てたのが919年とされているから、北野よりむしろ古いわけだ。そのころは墓所の名を取って安楽寺天満宮と呼ばれていたんだそうな。

雷神であるがゆえに、天満宮信仰は農耕信仰と結びついて全国に勧請されていったようです。特に西日本に多いそうですが。

その頃はきっと、いたずらした子どもに「そげなわるそうばっかしよったら天神さんの来んしゃるばい」(=そんな悪さばかりしているとあの怖い天神さまが懲らしめに来なさるよ)なんて親が言ったりするような感じだったんでしょうか。今とはまるで違うけど。

鎌倉期に入るとさすがにこうした怨霊としての性格は影を潜め、学者・詩人としての道真のイメージを反映した「学問の神様」となっていく。
時代が下って、江戸期に作られた「菅原伝授手習鑑」になると、すっかり「道真=(悲劇の)善玉、時平=悪玉」として描かれ、このイメージが固定化する。

で、明治4年(1871年)に「太宰府神社」と改名。この時は北野天満宮も「北野神社」に改名されていて、近代社格制度の下(またこれかい)、「宮」の字が皇族を祭神とするものにしか認められなかったため。「天満宮」の名に復したのは戦後の1947年です。

そんなわけで、北野と太宰府、今はどちらも天満宮の総本社ということになってるらしいです。正確にはどちらも「天神信仰発祥の地」という扱いなんだそうな。
福岡県人としてはちょっと安堵、な感じ。

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