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2012年2月26日 (日)

似て非なるもの − 浄瑠璃 vs 義太夫 vs 常磐津 vs 清元

> 「義太夫」は義太夫節のことでつまりは伴奏音楽だけれども、このあたりがやれ浄瑠璃だ義太夫だ常磐津だ清元だとまたややこしそうなので今回は飛ばしてと。
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ここんとこお勉強ネタが続いておりやす。

調べてみたら浄瑠璃というのは、三味線を伴奏に「語る」音曲の総称で、主に舞台音楽に用いられた。義太夫や常磐津や清元というのはその中の流派のことなんだそうな。
同じく三味線を用いる舞台音楽でも、「唄う」ものである長唄とは基本から異なる、らしい。

「浄瑠璃」の名は、室町中期の御伽草子「浄瑠璃十二段草子」、別名「浄瑠璃物語」に由来する。
これは牛若丸と浄瑠璃姫の悲恋物語で、浄瑠璃姫の名前は、子宝に恵まれぬ両親が薬師如来に願掛けしてついに得た娘であったため、薬師如来の浄土「浄瑠璃世界」に因んでつけたものであった。おおー。
(さらに言えば、「浄瑠璃」とは、仏典にいう七宝にも必ず入っている鉱物の瑠璃、すなわちラピスラズリの清浄 or 透明なものを指すのではなかったかと。一方、玻璃と言えば水晶 or 硝子のことで、「浄玻璃の鏡」は閻魔大王の前にあって人間の生前の善悪所業一切を隈なく映し出す鏡である)

これに巡遊伶人たちが音曲をつけ仏の功徳を説いて回ったのが「浄瑠璃」の起源だとか。主に平曲(平家物語)を演じていた琵琶法師たちが新しいジャンルに飛びついたというところもあったらしい。
ここに、中国→琉球と伝わった三線をルーツに持つ三味線が結びついて飛躍的な発展を遂げる。日本に入ったのが1560年前後らしいから、鉄砲公式伝来から10年ほど経ったあたりですか。ちなみに三味線の撥は、琵琶で使っていたそれを採り入れたもので、表現力を高めるため日本で工夫されたもの。
さらにこれを操り人形の傀儡師/くぐつし/かいらいしが伴奏として取り込んでいき、「人形浄瑠璃」と呼ばれる新たな芸能が確立していく。

浄瑠璃には古くは河東節/かとうぶし、大薩摩節、一中節/いっちゅうぶしなどなどの流派があり古浄瑠璃と総称されるが、1684年頃、大坂で義太夫節の竹本義太夫が竹本座を開き、近松門左衛門と組んだことにより芸術性を高め、義太夫節と人形芝居が一体となった人形浄瑠璃が完成を見た。ちなみに菅原伝授も千本桜も忠臣蔵も人形浄瑠璃版の初演はこの竹本座です。

ということは猿楽や能・狂言とは兄弟に当たることになりそうだ。そのせいかどうか、人形浄瑠璃を歌舞伎より格上と見なす考え方が今でもかの業界には厳然と存する。能狂言と同じですなあ、ハァ。

でもね。観阿弥・世阿弥父子が室町三代将軍足利義満の前で猿楽能を演じたのが1375年頃、世阿弥が風姿花伝を著したのが1400年頃。
出雲阿国が北野天満宮で興行して評判を取ったのが江戸幕府成立と同じ1603年、「かぶき踊り」が中心だった女歌舞伎や若衆歌舞伎から現代の歌舞伎劇につながる野郎歌舞伎となったのが1652年。
なんだ、むしろ人形浄瑠璃の方が歴史が浅いとも言えるんじゃないのか??ちょっと意外。
それでもなお歌舞伎の地位が低いとされるのは、河原者とか遊女とか蔭間とか、そのあたりの歴史がstigmaになっているからなのだろうか。

浄瑠璃はその後も次々に流派を生んでゆく。京都の一中節から生まれた豊後節は江戸に下って常磐津節・富士松節を生み、前者の常磐津節は江戸歌舞伎の伴奏音楽として隆盛を見たほか、さらに富本節→清元節を派生する。
後者の富士松節は新内節/しんないぶしに発展して門付けを中心に行われるようになる(吉原なんかの「新内流し」っちゅうやつですな)。
うわー、ここまでですでに10種類の○○節のオンパレード!誠に畏るべし、浄瑠璃世界。

要するに浄瑠璃の諸流派は、それぞれの創始者の名を冠したいわば名人芸として成立し、次の代にはまた新たな流派が生まれるという流動的な状態だった。
新しいものを生み出すことが重要な役割(目的?)の一つであったり、新しいものを生み出せなければ廃れていったり。歴史や格式よりそっちの方が大事だったのではないか。ああそうか、伝統芸能ではなくて流行音楽だったとは、つまりこういうことなのか。

このうち、人形浄瑠璃と不可分の関係になったのが「義太夫節」で、だから歌舞伎のうち人形浄瑠璃から採られた演目(だけ)を「義太夫物」「義太夫狂言」と呼ぶわけだ。
一方、豊後節系の浄瑠璃、特に「常磐津節」、「清元節」は人形浄瑠璃から離れて歌舞伎と結びつき現在に至る。

うーん、まだこんがらがりそうだなあと思って見ていたら、ふと気づいた。「人形浄瑠璃」の名称の中に「浄瑠璃」という総称が入っているところが曲者なんだ。「人形芝居」と置き換えて考えるとか、いっそ「人形義太夫」と呼ぶとかすればless confusingのような。

人形浄瑠璃を文楽とも呼ぶのは、さらに下って1790年あたりに植村文楽軒が大坂に建てた人形芝居小屋を、明治になって文楽座と称したことに基づいている。劇場(or その創始者)の名前が芸能そのものを意味するようになった次第。
あ、それも正確じゃないか。日本各地に「文楽ではない人形浄瑠璃」も伝わっていますよね、地歌舞伎もある如く。

上演形態の違いは内容にも差異をもたらすわけで、義太夫は「歌う」<「語る」の傾向が最も強く、浄瑠璃の「語り物」としての性格が顕著に表れた重厚な芸風である。
人形浄瑠璃の場合、人形(遣い)が「語る」ことはないわけで、状況説明のト書きから科白まで全て義太夫が受け持つことになるから、自然このようになっていったんだろう。言ってみれば音楽つきの朗読、朗読つきの人形劇。
ただし、義太夫節といっても歌舞伎の場合は役者が科白をしゃべるわけだからまた少し別で、この義太夫は特に竹本といったりするらしい。

対して、江戸で育った浄瑠璃ではより「唄う」という音楽的要素が強い。艶麗と豪壮と洒脱を兼ね備えた常磐津、これが長唄と接触してさらに洗練され繊細な情趣を追求した清元はいずれも歌舞伎の音曲としてもてはやされたほか、舞台を離れてお座敷芸や素人の習い事にまで広まってゆく。
落語なんかでも艶っぽい常磐津のお師匠なんてのがよく登場しますね。

用いられる三味線の種類にもこうした差異は表れ、義太夫では津軽三味線などと同じ太棹で、より低音の力強い響きを特徴とし、太夫の白熱した語りを盛り上げる。このあたりは琵琶の音色をなんとかこの新しい楽器に移そうとした先達の努力の賜物か。
これが常磐津や清元だと中棹、長唄では細棹になる。

もちろん、これだけの諸流派の中には廃れていくものもあるわけで、常磐津と清元との中間的な位置にあった富本は昭和に入って事実上の消滅状態。河東節も、現在の歌舞伎では唯一「助六由縁江戸桜」の冒頭(しかも成田屋宗家、市川団十郎 or 市川海老蔵の演じる場合のみ!)にしか使われず、専門の演奏者もほとんどいないため、興行の際にはアマチュアの愛好会の人たちが交代で演じるのだとか。

それでもねー、ぶっちゃけ、流派はこれからも減っていくんでしょうね。どれだけの人がこれら各種の浄瑠璃を「これは○○節、あれは△△節」と聴き分けられるのだろう。後継者難とは古典芸能や伝統工芸につきものの言葉ではあるけれど、そもそも需給のバランスが崩れた世界。実はまだ多すぎる、というのが厳しい真実なのかもしれない。
文楽も松竹の撤退(1963年)以後、既に商業ベースでは成立せず政府予算で保っている状態だし・・・

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