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2012年3月

2012年3月19日 (月)

八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた Part II

(承前)

市杵島姫は弁才天(弁財天・弁天)と結びつき、やがて弁才天は本家の市杵島姫や宗像三神の人気を凌ぐようになる。多分、神仏褶合というより宗教の大衆化娯楽化という切り口で見るべきなんだろうけど。
起源とされるサラスヴァティはヒンドゥー教における川の流れの神格化であり、ひいては流れ出るもの全般すなわち言葉や知識、音楽や伎芸の神。古くは地母神的な万能神の性格をも持ち、戦勝神ともされていたとは知らんかった。確かに創造神ブラフマー(=梵天)の妻でもある。
仏教に入って弁才天となり、日本では「財」の字をあてて福徳神の性格を強め、七福神としても親しまれる。海上神の市杵島姫とは「水」で通じたのだろう(でもなぜ三女神のうち一柱だけが??)。

弁才天を奉じた寺社では、明治の神仏分離により(またこれだよ)、神社側=宗像三神 or 市杵島姫、寺院側=弁才天と分かたれたところが多い。宮島の厳島神社と大願寺/だいがんじ、琵琶湖に浮かぶ竹生島に市杵島姫を祀る都久夫須麻神社/つくぶすまじんじゃと宝厳寺/ほうごんじなど。このほか、湘南の江島神社では与願寺が廃寺となって弁財天は摂社で祀ることとし、吉野の天河大弁財天社だと祭神を市杵島姫にすげ替えただけで弁財天も祀り続けている。みんな苦労したんでしょうね。

ちなみに江戸末期初演の歌舞伎「白浪五人男」に登場する「弁天小僧菊之助」は、江ノ島弁天の別当、岩本院の稚児だったところからきた名前。このピカレスク芝居、正式外題「弁天娘女男白浪/べんてんむすめ めおのしらなみ」、通し狂言だと「青砥稿花紅彩画/あおとぞうし はなのにしきえ」こそ、ゴレンジャーなんかの戦隊ものの元祖ですよ。名乗りの渡り科白も受け継がれてるし

いろいろ調べていたら、宗像大社のサイトにしゃらっと『当大社は全国の弁天様の総本宮とも云えます』とあったのは笑えた。次には『当大社は全国の宗像神社と厳島神社と弁天様と八王子神社の総本宮とも云えます』なんて言い出しかねないねぇ。宗像大社さん、だったらせめて弁財天の像とか社の一つも造って売り出しなよ、弁天様が気を悪くするよ(爆)。

神社のサイトはどこに限らず「片寄った」記述が多いもの(I'm not talking about「偏った」, okay?)。都合よくまとめちゃうのはまあ仕方ないとしても、正当化しようとするあまり自己肥大に陥っちゃった的失笑記述にも時折りぶつかる。調べごとがしにくいんですよねー(汗)。学究的立場で書きゃいいってもんでもないし、客観的事実の記載であってもあんまりやると神社本庁がきぃきぃ言いそうだけどね。
寺院のサイトはそんな印象でもないのになあ。

敢えて挑戦的に実例を挙げると、天河大弁財天社(天河神社)。弁天様なのになぜ内陸にあるんだろう、降水量激多の土地だし大峯山岳信仰とも関わってるのかしらとサイトを覗いてみると。ほとんど神憑り、天河伝説殺人事件の浅見光彦もびっくり状態でした。
確かに歴史は古いようだけど、半ばこの神社自体がスピリチュアリズムもどき新興宗教と化してるらしい。当然銭勘定にはやかましい系で、バブルに踊った末1992年に破産宣告を受けていた(ちなみに映画公開は1991年、もう20年経つのか)。足下の火は消したようだけど、2008年には「時勢の悪化を憂慮し」「本殿改築20年を記念して」、秘仏日輪弁才天を60年1度御開帳の年期を曲げて公開し、奥山はるばる来てみれば事前告知もなしにいきなり拝観料3000円(以上)を申し受けたという曰くつき。奈良京都の観光寺院も真っ青です。挙げ句に昨秋の台風被害の改修費用捻出のためにまた御開帳すりゃいいんじゃないの、と揶揄される始末。過疎の山村で声を上げる人もいないんでしょうか。
映画公開当時、CMで繰り返し流れた特徴的な形の「五十鈴」も販売してるんだけど、ネット上ではお値段不明なのもありがち・・・想像するとどきどきしちゃう。

天河大弁財天社の有難き五十鈴

おっと、愚blogはトンデモ事物紹介サイトじゃなかったんだ。どうでもいい話はこれぐらいにしといてと。

他の二柱の姫神たちには取り立てて逸話もなさそうなんだけど、多紀理毘売/田心姫が大国主命の妻になっていることが目を惹いた。えーと、それってどういうことなんかな。スサノオの子孫と、スサノオの物実から生まれた娘とが結婚した。大国主は七福神の大黒に変化し、その嫁さんは同僚ともいうべき弁財天の姉妹。・・・でもそれだけじゃないだろう。
もともと大国主は配偶者の異常に多い神で、全国の神様と「きょうだい」になっちゃいそう(笑)。そこがこの神を(国津神の)複数神格の融合体であると見なす根拠の一つともなっている。海人族宗像氏と製鉄族出雲氏との融合(をヤマト朝廷から描いたもの)を意味するんだろうか。ちなみに宗像族は出雲族の神裔ともされている由。

最後に、宗像大社といえば忘れちゃならないもう一ネタ、「海の正倉院」のこと。
沖津宮の聖域として上陸が厳しく制限されてきたという特異な歴史を持つ沖ノ島は古墳・遺跡の宝庫でもあり、戦後3次の発掘調査が入って、祭祀遺物約8万点、縄文・弥生の遺物約2万点という、まさに夥しいお宝が掘り出された。大陸との交流を物語る貴重な史料というわけです。周囲4kmということは歩いたとして1時間、そんな小島でこのザクザクぶりはパネえよやっぱ。祭祀遺物については現在全てが国宝に一括指定されていて(+_+)、点数ではおそらく日本で一番たくさん国宝を持ってる神社仏閣でしょう。もう、「バルクで国宝!」ですがな。
(辺津宮の)神宝館に納められていて、ツルも学生の頃わざわざ見に行ったことがある。真冬の頃で、ただひたすら館内が寒かったことしか覚えてませんが

宗像大社は今や世界文化遺産の暫定リストにも登録されている。なんとエジプト学の売れっ子センセイ、吉村作治早大教授の肝煎りだそうで。
これはいけるんじゃないかなあ、ぶっちゃけ、見所のまるで遺ってない「日本一大がっかり世界遺産」の石見銀山なんかより。まあそのためには沖ノ島が逆にネックになるのかも、だけど。

2012年3月18日 (日)

八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた

(承前)

> アマテラスとスサノオの誓約の時に生まれた三柱の女神は「宗像三女神」として知られ、福岡県の玄海灘寄り、宗像大社に祀られている。
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宗像大社って、ややマイナーな印象だけど、平安期の延喜式神名帳/えんぎしき じんみょうちょうでは「並名神大/ならびみょうじんだい」に列せられた、由緒ありかつユニークな古社。さらに遡って、大化の改新(最近では史実性が疑われているようだが)で神領を賜ったというから平伏ものです。

宇気比/誓約により生まれた八王子のうち三女神とは、古事記によれば;

 多紀理毘売命/たきりびめ(別名 奥津島比売命)
 市寸島比売命/いちきしまひめ(別名 狭依毘売命/さよりびめ)
 多岐都比売命/たきつひめ

といい、胸方/胸肩の民の信ずる神としてそれぞれ沖津宮、中津宮、辺津宮/へつみやに祀るとされている。宗像大社とはこの三つの宮の総称なんです、正確には。

日本書紀(本文)によれば;

 沖津宮:田心姫/たごりひめ
 中津宮:湍津姫/たぎつひめ
 辺津宮:市杵嶋姫/いちきしまひめ

となり、五男神同様、生まれた順番もちょっと違ってますね。「たごり」は「たぎり」の転訛したもの。注記の「一書曰/あるふみにいわく」の中には、古事記と異なり田霧姫≠沖津嶋姫=市杵嶋姫とするパターンも出てくる。

で、実際の宗像大社ではどうなのか。現在;

 沖津宮:田心姫神
 中津宮:湍津姫神
 辺津宮:市杵島姫神

となっていて、日本書紀本文と同じ。
同社のサイトには、『日本最古の歴史書とされる「日本書紀」』のことしか出てきません。まあ、天皇の勅による正史という意味では確かにそうだろうけど(苦笑)。

宗像大社の沖津宮のある沖ノ島(隠岐でも壱岐でもないよ)は玄海灘の海上約50km、本土と対馬のほぼ中間に浮かぶ面積1平方km足らず、周囲4kmの無人島(神官は常駐とか)。島そのものが御神体とされて、一般人の上陸は原則禁止。

精進潔斎して見よ、沖津宮

例外は毎年5月27日、日露戦争の日本海海戦(この近くで戦われたので、神官佐藤市五郎が木に昇って見ていたらしい)の日に行われる現地大祭の時のみで、事前申し込みによる200人限定(今も女人禁制)、前日から大島で中津宮に詣って、沖ノ島でも裸になって禊をしてからやっと上陸できるのだそうだ。荒天で漁船が港に緊急避難した時も、上陸に際して禊が求められるという徹底ぶり。

中津宮の大島(筑前大島)は本土から約6km、こちらはフェリーも通っている有人島。辺津宮は島ではなくて本土の田島の地におはします。
山岳信仰で、麓に遥拝殿、山頂に奥の院があるなんてのと同じ感じだろうか。ひょっとして、「沖」と「奥」って同系語なのかな。

ここでちょっとひっかかる。「市杵島」は明らかに「斎き島/いつきしま」つまり神聖な島のことだろう。であれば、この神様は本土の辺津宮ではなくて、海上の沖津宮か中津宮に鎮座すべきではないのか。古事記の記述の方がここはしっくりくる。
三女神の配置にも古来変遷はあったらしいし、三柱の中では市杵島姫がちょっと抜きん出ていたようだから、そのへんの集客力を狙って遷したりしたのかしらん?こんなとこが知りたいんですよ、ツルは。

そういえば湘南の江島神社にも似た名前があったような、と思ったらここも宗像三神だった!江の島の中に沖津宮、中津宮、辺津宮があるってのはややスケールダウン否めませんが、短気な江戸っ子にゃ丁度よい遊山先だったかも。ちなみに三宮の祭神パターンは宗像大社とは異なり古事記と同じ。

基本的に西の人間のツルにとっては、大きな神社に行くとだいたい「市杵嶋姫」の額を懸けた摂社末社がある感じで、これってどんな由来だろうと思っていた。
この名で思い出されるのは安芸の宮島の厳島神社。これまた宗像三女神を祭神としていて、宗像大社とはいわば姉妹関係か。ツルは今までなんとなく、厳島の神だから市杵島姫だ、これが宗像大社にも祀られたんだぐらいに思ってたけど、むしろ逆なんですね。

宗像三女神の信仰は、もともと海人族宗像氏の信奉する土着の地方神だったものが、大陸との接触が増えるにつれ国家神に転じていったものらしい。
古事記には、アマテラスが三女神に「宗像から朝鮮中国に至る海の道に下って皇統を助けよ」と命じる件りもあるし、この三社は地理的に一直線上に並んでいて、その線を延ばしていくと、対馬の北端をかすって釜山あたりに至る。微妙に怪しげな古代ミステリィロマンのかほり。

位置関係

各地の宗像神社や厳島神社はほとんどが畿内〜熊野灘〜瀬戸内海〜玄海灘に分布していて、これも大陸への航路に沿ったものだという(@_@)
となると、宗像辺りは船がちょうど日本本土を離れる最終地点だったと捉えることができる。一柱ずつ別の宮居として点在させたのもそんな旅路を手厚く守護する目的だったのではないか?事実、沖ノ島は航海上重要な目印でもあるとか。

宗像大社は海上安全のご利益をもって崇められ、秋季大祭では神輿に代えて満艦飾に大漁旗をはためかせた数百隻の漁船団が海上神幸を行うなんてのも、いかにも海人族の護り神らしいところです。
当然現代では陸上も含めた交通安全の神様となるわけで、日本で初めて自動車用のお守りを発売した(1963年(@_@))という、太宰府天満宮にも負けず劣らずなかなか算盤上手な神さんだ。福岡あたりじゃここの交通安全祈願のステッカーをつけた自動車、とっても多いです

(To be Continued...)

2012年3月17日 (土)

八王子 − 五男神にこだわってみた Part II

(承前)

アマテラスとスサノオの宇気比でもっと奇妙不可思議なのは、「なぜアマテラスまで子を生むのか」という点だと思う。

そもそもこのお話の前後の流れを古事記で追ってみると;
死した母伊邪那美命/イザナミを慕って泣き暮らし務めにも就かぬスサノオは、父伊邪那岐命/イザナギから高天原追放を命ぜられる。スサノオが母を訪ねて根之堅洲国(≒黄泉)に赴くに先立ち姉神に会いに行ったところ、天地騒鳴震動したのでアマテラスは弟が高天原を狙って攻めてきたものと疑い、武装して迎える。スサノオは邪心のないことを示すために宇気比を行うことになるわけ。
宇気比の後は、勝って増長したスサノオが高天原を荒らし回り、これを憂えたアマテラスが岩戸隠れし、・・・〔途中省略〕・・・スサノオは罪を科されて高天原を追放される、という流れ。
(ただし、日本書紀の「一書曰」ではこの前と後が逆転しているものがある)

こりゃまたツッコミどころ満点のお話です。
イザナギだって亡き妻に会いに根の国に行ってるのに息子にゃ認めないのかよ(この点日本書紀は、勘当じゃなくスサノオが伊弉諾神の許しを得て伊弉冉神を訪ねることとして解決)。あ、でも父は自分が「見るな」のTabooを破って大喧嘩した挙げ句に夫婦別れして帰ってくる不始末やらかしてるからこそ許さんって方が自然か。
そもそも、イザナミはスサノオの母親じゃないぞ(スサノオたち姉弟は根の国の穢れを祓うイザナギの禊で生まれている)、なんてところもありますが。

スサノオが身の証しを立てるためには、「我に黒心あるべからざればいたいけなる嬰子(or 手弱女?)生まれよ」トカナントカオッシャッテ、自分のアイテムから子を生んで「ほうれこのとおり、私は潔白だ」とでも言えば済むわけで、なにもこの場面でアマテラスが子を生む必要はないと思える、アイテム取り替えて話ややこしくしてまで。ここを深掘りしてみた。

結局、古事記にせよ日本書紀(本文)にせよ、物実の件を捨象すれば、共通しているのは;
①スサノオの行為により五男神が生まれ出ること
②スサノオの勝ちとされていること
③アマテラスが五男神の帰属を唱えて引き取ること
の3点ってことになりそう。

ポイントはそれぞれのキャラの行く末です(以下も基本的に古事記より)。
スサノオは出雲に降り立ち、八俣遠呂智/八岐大蛇退治なんかしたりする、その後はあんまり活躍しないけど。この六代目の末裔(日本書紀ではスサノオの子)が大穴牟遲/おおなむちすなわち大国主命で、着々と「国造り」を進めて(≒国津神化して)いく。
一方、五兄弟の長男オシホミミは地上界すなわち葦原中国/あしはらのなかつくにを治めるよう母(?)アマテラスに命じられるが、天浮橋から下界を覗き中津国は大変騒がしいとして立ち戻る(軟弱もの!!)。そこで、次男の天之菩卑能命/天穂日命/あめのほひが、次いで天若日子/天稚彦/あめのわかひこ(これは「神」ではないらしい)が遣わされるが、どちらも大国主に服してしまう。
その後、建御雷神/たけみかづち派遣に至ってやっと、大国主の子の事代主神/ことしろぬし・建御名方神/たけみなかたを服従させ、次いで大国主本人に宮殿(=出雲大社)の造営と引き換えに「国譲り」を承服させる。

ここらへん、いかにも侵略っぽいですなー。建御雷は十掬剣を逆さに突き立てて迫ったり、建御名方とは力競べをやったりしてる。これが神々による相撲の元祖。(人間の相撲(&柔道)の起源とされる野見宿禰/のみのすくねと当麻蹴速/當麻蹶速/たいまのけはやの取組のことは日本書紀のみに記載。)こういうのは「武力制圧」っていうでしょうよ、普通。
日本書紀の「一書曰/あるふみにいわく」の中には、この件りが(出雲大社造営等の)外交交渉というか懐柔政策のお話になっているものもあったけど。

すったもんだで中津国平定が完了したところでやっと下界に降り立つのが、オシホミミの子、邇邇芸命/瓊瓊杵尊/ににぎのみこと。アマテラスの孫に当たるとするから天孫降臨と呼ぶわけだ。子じゃなく孫なのも何か訳がありそう。(ここで三男坊あたりが登場してもいいのに)
で、アマテラスの血脈=日継の皇子の系譜は、
オシホミミ
→ ニニギ
→ 火遠理命/ほおりのみこと(日本書紀では彦火火出見尊/ひこほほでみのみこと)、すなわち山幸彦
→ 鵜草葺不合命/うがやふきあえずのみこと
→ 神倭伊波礼琵古命/かむやまといわれびこ、すなわち神武天皇
と受け継がれて人皇の時代に入っていく。

ふーーーん。要するに、天降りした弟神の子孫が国造りをして、姉神が弟との誓約で得たところの子孫がその国を譲られて(譲らせて)、それが今の治世に至るという筋書きだ。
ということは、国譲りや皇統を正当化するためには、(1)アマテラスの子の存在と(あ、当たり前か)、(2)スサノオの下放および国津神との混淆融合と、両方ともが必要だったのか。
ほんでもって、譲らせた国にアマテラスの裔がのこのこ出ていって治めていくためには、なるべくスサノオとの血のつながりを濃くしておくことがベターだろう。
「やあ!同じイザナギ/イザナミの子孫同士じゃないか」じゃあちょっと弱くて、「ボクのご先祖も実はスサノオ爺さんが生んでくれたんだぜ」が決めゼリフになるわけだ(ホンマでっか)。

これに比べれば、スサノオが三女神を得たり、宇気比に勝ったりというのは追加要素に過ぎないんじゃないかという気がしてきた。極論、スサノオが証しを立てられずそのまま放逐されたって大勢に変わりはないはず。

ちなみに宇気比/誓約に用いられた勾玉は、古事記で「八尺勾珠五百津美須麻流珠/やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま」、日本書紀で「八坂瓊之五百箇御統/やさかにのいおつみすまる」と書かれている。名前からして三種の神器の八尺瓊勾玉/やさかにのまがたまかと早合点しかけたが、それはアマテラスの岩戸隠れに際して諸神が作らせたものだから別物らしい。というより、八尺瓊勾玉とはもとは普通名詞であった由。
十拳剣/十握剣/十掬剣も同様で、この名は記紀神話にたびたび登場する。

まあそんなこんなはおいといて、ふふっ。

次回の主役は三女神の方。やっとここまで漕ぎ着けました・・・

(To be Continued...)

2012年3月16日 (金)

八王子 − 五男神にこだわってみた

> 各地の八王子神社でも祭神がすげ変えられ、「牛頭天王と頗梨采女との間に生まれた八人の御子」から「須佐之男と天照の誓約/うけひによって生まれた五男三女神」になったりしたのだ(@_@)。
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最近すっかり故事ヲタクのツルです。

この時に生まれた三柱の女神は「宗像三女神」として知られ、ツルの出身地福岡県は玄海灘寄りの、宗像大社に祀られているのだ。
そんなわけで、ここら辺をちいっとお勉強してみたんですが・・・どつぼにはまってとっぴんしゃん。

アマテラスとスサノオの姉弟の誓約というのは、古事記と日本書紀でちょっと内容が違っている。

古事記では、天照大御神は建速須佐之男命/須佐乃袁尊の十拳剣/とつかのつるぎを噛み砕いて三柱の女神を生み、スサノオも同様にしてアマテラスの勾玉から五柱の男神を生む。アマテラスは「自分の持っていた玉から生まれた男神の方が自分の子だ」と唱え、スサノオは「自分の持ち物から生まれたのが心優しき女神なのは自分に邪心がないからだ」と応じて、スサノオの勝ちとなる。

なんだか不思議な話ですねえ・・・

[A]まずは、アイテムを交換して生まれてくる子キャラが、親キャラではなく「アイテムの元々の持ち主キャラ」に帰属するという設定だけど(ゲーム感覚でいっちゃいかんですかね?)、この「物実/ものざね」の思想は必ず取り上げられるところだからちょっと措いといて。
[B](スサノオの)剣から生まれ出るのが女神で、(アマテラスの)玉から生まれるのが男神というのもちょっと不思議。普通はアイテムを逆に設定しそうなもんだよな。
[C]「八王子」でせっかく偶数なのに、男女比をわざわざ5:3に崩してあるのも不思議と言えば不思議なり。

一方の日本書紀では。
この書物は本文のほかに注記として多数の異説を列挙してあるのが特徴で、この時代の史書しかも国家の正史で複数記載を許容したものは世界に例がないらしい。革新的。当然、日本書紀を読むというのはこれも含めてっていうことで、現代の我々に格好の研究材料を提供してくれてるわけです(ああ、めんどくさい)。

で、その本文に曰く、天照大神が素戔鳴尊/素戔男尊の十握剣から三女神を、スサノオがアマテラスの勾玉から五男神を生み、スサノオが勝つあたりは古事記と同じに見える。
でも!これはあらかじめ「男子が生まれれば『赤心/きよきこころ』、女子が生まれれば『黒心/きたなきこころ』としよう」と約した上でのことなのです。うわー、臆面もない男尊女卑。
スサノオが勝つ理由が古事記とはまるで逆。しかも「物実」思考(志向?)はないことになる(ここは上記の不思議[A]への回答にもなりそうだ)。
ところがこのあとで事情がねじれ、アマテラスが物実を言上げして五男神を自分で養うこととする。

さらに、注記の「一書曰/あるふみにいわく」だとバリエーションが広がって、その(一)ではアイテム交換はせず、アマテラスは「自分の」剣(三振り)から三女神を、スサノオも「自分の」玉から五男神を生む。言い換えるとアイテムが初めからすり変わっているわけで、武装していたのはアマテラスなのだからこっちの方が理に適う気もする。
(二)では、アイテムは交換するが、アマテラスはスサノオの「玉」から三女神を、スサノオはアマテラスの「剣」から五男神を生むのが本文と異なる(ここは不思議[B]に呼応するな)。
(三)では(一)とほぼ同じだが、スサノオが生むのは「六男神」。女神の倍の数になるわけだ、てことは九王子でエンネアドか、ほほぉ。(これは不思議[C]の手っ取り早い解決になるな・・・)

もともと宇気比という占いは初めに条件を呈示して行われるものであり、また、複数で競う類いのものでもない。
たとえば、「大鏡」の「南院の競射」の件りで、藤原道長が政敵である甥伊周/これちかの邸で「道長が家より帝后立ち給ふべきものならばこの矢当たれ」「摂政関白すべきものならばこの矢当たれ」と言って弓を引いたところ二度とも見事に的の真中心を射抜き、伊周は(結果的に)すっかり気圧されてしまった、なんて話が一つのパターンか。
その意味で、古事記の宇気比はどうも後出しジャンケン的な奇妙さが残る。

妙なところはもう一つ。宇気比で生まれた五男神兄弟の長男を、古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命/まさかつあかつかちはやひ あめのおしほみみのみことと言い、この長い名前の前半部分は「正に勝った、私は勝った、日の昇る速さで勝った」といった意味。スサノオは「(私の剣で)女神が生まれたから私の勝ちだ」と言っておいて、勝ち名乗りともいうべき名前は男神の方につけているのだ。あ、そりゃしょうがないのかな、だって三女神の方の命名権はアマテラス側にあるだろうから。
ちなみにこの男神は、日本書紀では次男とされていて名前も天忍穂耳命とだけ。

(To be Continued...)

2012年3月12日 (月)

梅花に寄せて

やっと満開です、空中庭園@下丸子でも。品種不明の白梅と、鹿児島紅と。

白梅(すこうしピンク) 鹿児島紅

前者は20年ほど前、会社に出入りの業者がお年賀に持ってきた盆栽をツルが分捕ったもの。後者は数年前に九州筑後の「御座敷梅林 青輝園」で買い付けた苗木です。香りは白梅の方が高いかな。

それにしても今年は遅い。八重大輪緑萼なんてまだ固い蕾!昨年は2月11日に梅の花の記事を書いたのに。
震災の犠牲者を悼み被災者を慰めるために遅れて咲いてくれたんだ、と言ったら綺麗ごとに過ぎるだろうか。

岩手県陸前高田市で昨日、津波の到達点をつないで桜を植えるというプロジェクト「桜ライン311」が行われたと報じられています。
サイトを拝見すると、ここまで津波が来る(来た)とわかっていれば、奪われる命ももっと少なかっただろうに、という趣旨から出た地元のボランティア活動のようです。

震災の記憶を風化させず後世に伝えていくこと、そして災害に強い国土づくりに役立てていくことはもちろん賛成です。その一方で、被災者の苦痛を考えると、地震につながる様々なものを残すことに、両手を上げて賛成する勇気もない・・・。

一昨日3月10日、宮城県石巻市雄勝町/おがつちょうで、公民館屋上に乗り上げた観光バスがついに撤去された。

雪の中の撤去

同県本吉郡南三陸町では、あの日30人ほどが屋上に避難して10人だけが助かった3階建の防災対策庁舎が、昨年9月、遺族の感情に配慮して解体が決まった。

南三陸町防災対策庁舎

同県牡鹿郡/おしかぐん女川町では、6月に町が女川交番などの横転建造物を数点保存する計画を立て、募金を行っている。

横転した女川交番

同県気仙沼市に打ち上げられた大型船17隻のうち、最後に残された鹿折唐桑駅/ししおりからくわ付近の漁船「第18共徳丸」(総屯数330屯)は、6月に市が保存を打ち出している。

市街地に乗り上げた第18共徳丸

忘れるなと叫ぶ人と、逃れたいと泣く人と、皆悩んでいると思うし賛否両論の必ずある問題だと思う。遺構保存で人命は救えないという声もあると聞きます。
(1955年に広島平和記念公園として整備された原爆ドームの保存にもきっとそんな議論はあったはずで、60年代前半まで解体論も根強かったそうだ)
ツルは基本的には、人類は「負の遺産」も残すべきだという立場ですが。

でも、津波の記憶を桜に託して後世に残すというのは、正直言ってツルは納得しません。どうしてだろう。理由はいろいろ。

この国に桜はもう多過ぎる。
ツルが別に桜を好きじゃない。
この地で3月11日に桜の開花は望めない。
桜、特に染井吉野は寿命が基本的に100年程度しかない。
地震や津波と桜とに何の関係があるのか。あるいはどんな意味づけを新たにしようとするのか。

ツルの親あたり以上の世代だと(結構なご高齢ってことになるな)、桜や夾竹桃はどうしても好きになれないという人が少数派ながら必ずいます。戦時中の「咲いた花なら散るのは覚悟」という風潮をいやでも連想するとか、あの強烈な赤い花に終戦の夏、敗戦の日の記憶がフラッシュバックするとかの理由で。いたし方のないことにせよ、残念だ、気の毒だなあと思う。

ツルは植物オタクだけど、いや、だからこそ、そんな人間(じんかん)の事情なしに植物に親しめたらいいと希います。花は、ただそこに在る。
植物を植え育てる行為に特殊の意味を持たせることに、心からの賛同はできないというか。

・・・うーん、なんかそれもちょっと違う・・・

結局、負の記憶を正の記憶にすり替えることを潔しとしない心情があるのかもしれない。闘って闘って闘い抜け、自分自身と、みたいな。

ただ一本残った松の木に多くの思いが寄せられたのも、そんなところがあるのじゃないかとツルには思える。

奇跡の一本松 月下の一本松

ただ独り

そうか。あの松原の子孫を到達点に植えていくということだったらツルは納得します。
津波は7万本の松原を押し流した、でも、その達した所からまた新しい命が始まる、というのならば意味合いは全く違ってくる。

あの松の蘇生をついに断念したと発表された翌日、接ぎ木が岩手の森林総合研究所材木育種センター東北育種場で成功し、播種による発芽が住友林業で成功したと報じられたのは年末のほっとニュースだった。

材木育種センター東北育種場にて まだ幼く弱い緑だが

これらもきっと、松原再生(させるんですよね??)に使われることだろう、マツクイムシに強い新品種とか何とかと一緒に。千年に一度の大津波を踏ん張り抜いた木が最後に伝えた命は何とか元の場所に戻してやりたいよね。
もちろんそれも、地震や津波から人々が守られる、災害に強い町づくりをという目標がまずあってのこと。そのために、再び立派な松原を育てるために、まず使ってほしい。(願わくば全国からも苗木の集まることを)
でも一方、全てを流し去った津波が達した先端に、海辺の最前線で長く町を守ってきた松の子孫を植えていく、というのも復興の一つの考え方じゃないだろうか。被害の大きさを伝えるためなら、桜じゃなく。

あっという間に1年が経ち、決して復興は順調ではない。「絆」という砂糖菓子の衣も溶けてきてる。これからもっと利害対立の場面も増えてくるでしょう。被災地の復興を阻む真の理由は瓦礫受け入れを拒む我々の心じゃあるまいか。募金箱にはお金を入れて、でもあくまで対岸の火事、自分(の次の世代)に影響の及びそうなところには口を出してほしくない、というような。

そんなことを思いながら、敢えて挑戦的なことも含めて書かせていただきました、反論、反感を持たれる方もあろうかとは思いつつ。

それにしてもやっぱり涙が出てくる、直後の報道など読み返していると。

2012年3月11日 (日)

祇園祭につき一言

八坂神社と言えば毎度不思議に思うことが一つ。

祇園祭って、なんで八坂神社のお祭りなの??あんまり関係なさげじゃん(無知&不躾)。

そりゃ、住んでたんだからそれなりには知ってるつもりですよ。祭は山鉾巡行の後も二週間ほど続き(「後の祭り」の語源とも)、このため一般には六月晦日に行われる茅の輪くぐりの夏越の祓が、一月繰り延べられることも。また本来の中心行事は山鉾巡行ではなく神輿渡御であることも。そしてご神紋に切り口の似たキュウリ食べちゃダメってことも!

でも。メインの神社がまるで登場しない(ようにみえる)祭って、他にあるのだろうか?(ま、あるだろけどさ)

例えばこれが葵祭すなわち賀茂祭なら、御所→下鴨神社→上賀茂神社と進む行列(路頭の儀)だけでなく、神社境内での儀式(社頭の儀)も執り行われる。
また、同じ祇園会でも、博多祇園山笠だと、クライマックスの「追い山」は、各山が櫛田神社の境内からスタートして街なかを駆け抜ける(なんとタイムレースで!)。

これが京都の祇園祭だと、確かに神輿渡御では宮入りするけれども、よく知られた宵々山や宵山ではあくまで各山鉾を出す町内が祭の場であり、屏風やらなんやらほんやらのお宝を家うちに飾って道行く人々に見てもらったりするわけだ。屏風祭と言われる由縁。
(はてどこかのお祭りにも同じ風習があったような・・・?と思って調べたら、山陰あたりに分布する「一式飾り」だった。島根県平田市の平田天満宮祭で行われる「平田一式飾り」、鳥取県西伯郡南部町の「法勝寺一式飾り」など。家々で、いろいろな日用品を使って何かの「見立て」を造形するというもので、例えば竹ざるや巻簀で鎧武者を作ったり、自転車部品で巨大伊勢海老を作ったりといった趣向。)

八坂さんの境内に足を踏み入れることがないのは山鉾巡行にしても然り。(これを「しゃちほこじゅんぎょう」と読んだ友人がいて、総ツッコミ入れられてたっけ・・・)
巡行の順番は、年毎に籤引きで決められるが、長刀鉾(ほか数基)は「籤取らず」で常に変わらないことはよく知られた話。
巡行は、「籤取らず」で毎年先頭を勤める長刀鉾に乗った稚児が「吉符切り」を行う(ちなみに籤取らずで順番が決まっている山鉾は長刀以外にも数基ある)ところからスタートするけれども、この時ですら、長刀以下並み居る山鉾は四条通の烏丸通あたり(?)の路上に東を向いて陣取っている。そして、まっすぐに延びた都大路の果てには・・・八坂神社!

前にテレビで見て印象的だったのは、祇園祭のお稚児を勤めた経験のある(中年)男性へのインタビュー。曰く「四条通の向こう、東山から差し上った朝の陽の光を受けながら神刀で吉符を切った瞬間、眼下の人波が扇の形に左右に分かれてゆくのが、子供心に何とも緊張感に満ちた中にも誇らしく、そして鉾がゆっくりと動き出し・・・」云々。こう聞くと確かに一度は経験してみたいものだなあと思う。長刀鉾の稚児を勤めるには2,000万円ほどもかかるらしいから(+_+)、ツルなど縁無き衆生ではございますが。

つまりは、祭における神社の役割が薄いというよりも、京の町衆が育てた祭としての性格が強いと言いたかったわけでして。
歴史から言えば、平安京遷都以前から行われていたという貴族の祭、賀茂祭の方が古いにせよ、現在最も親しまれている庶民の祭だからね。
869年に御霊会の形で始まって以来、応仁の乱やら東京遷都やら第二次世界大戦やらによる中断が結構あったとはいえ(200年ほど絶えてたこともあるらしい)、千年続けるのはなまなかなことではなかったろう、いくら京都が連合国軍の攻撃の対象から外されていたとはいえ。底力を感じます。

・・・やはり祭りごとというのは、執り行わなければならないものと、なのじゃないだろうか。たとえ、凄惨な地震が来ようとも、です。

2012年3月 7日 (水)

祇園社につきお勉強(その2)

牛頭天王ばなし、もちょっと続けるぞっと。

「天王」がつく地名は全国にあって、その多くが牛頭天王に因むもの。例えば品川の天王洲アイル、京都と大阪の境にある天王山トンネル、おおー。
というより、「てんのう」と聞けば誰しも「天皇」ではなく「牛頭天王」をイメージするってぐらいのもんだったらしい。

ツルは学生時代の最後の1年、京都市左京区の黒谷にある金戒光明寺/こんかいこうみょうじの中にある清心庵というところに住んでいた。黒谷さん(京都人は「くろだにさん」と濁って発音する)と言えば浄土宗五大本山の一つ、法然坊源空すなわち法然上人が若い頃にいらしたところですよ、えへん。つってもツルはそっち方面の者では全然ないし、清心庵もごく普通の安アパートだったんだけど。
それでも、東山づたいに吉田山から真如堂と抜けてきたところにある黒谷さんは境内も広くて、黄昏時に和笛を練習してる若者がいたり、夏には山門の下で近所の子どもたちが地蔵盆で流し素麺やってたり(微笑)と、なかなか風情はありました。三重塔も立派なものだったし。
黒谷と言えば黒谷和讃でしょ、黒谷和讃と言えば「一つ積むのも父のため、二つ積むのも母のため」と幼子が賽の河原で石を積み上げるアレでしょ、ぐらいのところでわかったつもりになってたんだけど、それは地蔵和讃だった・・・

で、ここの南隣に岡崎神社という古い社があって、これの別名が東天王社、地名は岡崎東天王町。やはりこれも同じ由来のやう。桓武帝の平安京建都に際して王城鎮護のため都の四方に祀られた天王社の一つで、主祭神はもと牛頭天王、現在は須佐之男命!うわー、どんどんピースがはまっていく!!

ただ、大阪市天王寺区の由来となった四天王寺(今もあります)となるとまた違っていて、これは飛鳥時代、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の争乱に際し、蘇我方の聖徳太子が持国天、増長天、広目天、多聞天(=毘沙門天)の四天王に祈って勝利したお礼に建立したという由緒あるお寺。さすがに牛頭天王とは時代感がだいぶ違いますね。
この天王寺区の南隣にあるのが阿倍野区。陰陽師安倍晴明はここで生まれたということになってて、安倍晴明神社というのもある。なんだか怪しいものオンパレードになってきた。
ちなみに、区名は「阿倍野区」で阪堺電鉄の上町線や市営地下鉄の駅名も「阿倍野」、なのに近鉄の南大阪線は「阿部野橋」、そして神社は「安倍晴明神社」。わかります?漢字が少しずつ違うんだよね。なかなか覚えられなかったものです。

他方、牛頭天王の八人の子というのが(異説もあるようだが)いわゆる八王子で、東京都八王子市の地名もこれを祀った八王子神社から来ている。
さらに、そのうち一人の名前が「大将軍」。これは京都市北区にある地名だ!ををー。

もう、どこまでも枝葉が繁って尾鰭がついて収拾つかなくなってきたので、ちょっと立ち戻りましてと。

祇園社の総本社を名乗るのが八坂神社(と兵庫県の広峯神社。こちら側に立てば、牛頭天王はまず広峯に入り、それから上述の岡崎神社/東天王社に、そして八坂神社に遷し祀られたのだとか)。所在地は京都市東山区祇園。

八坂神社の縁起は、藤原基経が私邸を寄進して造営した寺に起源を求める説が一般的のよう。この行為が、須立長者が樹林を寄進して祇園精舎を建てたという仏典の話に似ているところから祇園社と呼ばれるようになったとやら。何となく嘘くさいが、つまり寺ですよ、寺。
ここに牛頭天王を祀り、平安時代のうちから須佐之男命が混淆していったわけです、いずれ劣らぬ暴れ者。妻の頗梨采女も須佐之男の妻の奇稲田姫と同一視されるようになる。あー、やっぱりややこしい。

祇園信仰ってぶっちゃけ怪しいところだらけってのがわかってきたので、枝葉ついでに書いておくと・・・
「祇園」というのはシオニズムの「シオン」と同源であるというトンデモ話があって。シオンというのは、ユダヤ教とイスラム教の聖地で、イスラエルのエルサレムにある丘のこと。「嘆きの壁」のあるところです。ここってフランス語だとSionだけど、英語やドイツ語ではZion(英 ザイオン:独 ツィーオン)で、祇園すなわちGionに限りなく近づくわけやね
この説だと、右京区太秦(広隆寺と映画村のあるとこネ)にある「いさら井/井浚/伊佐良井」という井戸(今では涸れてます)も「イスラエルの井戸」の意味で、近くの神社「蚕の社」にある三本足の鳥居も六芒星すなわち「ダビデの星」を表してるてなことになってる。うはははは!(ちなみに五芒星すなわち「ソロモンの星」は阿倍清明印でもある)
実は「いさらい」の語は井戸の名としてはわりと普通だったらしいけど、なんと言っても場所が場所だからねー。帰化人、もとい渡来人の本場って感じで。

あだしことはさておきつ。結局のところ平安京の祇園社は社(=神社)というより院(=寺院)と見られており、延喜式神名帳にもここのことは出てこない。奈良の興福寺や比叡山延暦寺の管理下に置かれたこともあったようです。

実はここを造営した藤原基経は菅原道真の政敵であり、また、この長男こそ延喜式の編纂を始めた(かつ道真を左遷に追い込んだ)藤原時平!おもしろーい。
八坂神社と北野天満宮(福岡的には櫛田神社と太宰府天満宮か?)は対立関係にあったりして、あはは。(罰当たりっ!)

実は八坂神社という名前も明治の神仏分離令(1868年〜)以降のもので、それまでは祇園感神院/感神院祇園社と呼ばれていた。
明治政府の大弾圧を受け、感神院は廃寺となって強制的に神社に改組させられちゃったわけ。お祀りする対象も牛頭天王を廃して須佐之男命オンリーにされちゃってる。これは全国の祇園社も同様だったらしい。
それだけじゃない。各地の八王子神社でも祭神がすげ変えられ、「牛頭天王と頗梨采女との間に生まれた八人の御子」から「須佐之男と天照の誓約/うけひによって生まれた五男三女神」になったりしたのだ(@_@)。

明治政府による廃仏毀釈って、つまりはこういうことだったんですね。今までもいろんな神社を調べて思ったけど、神仏分離令って、ほんとに日本の信仰体系をズタズタにしちゃったんだなあ(@_@)

To be Continued...

2012年3月 3日 (土)

祇園社につきお勉強(その1)

>2009/09/06
>祇園信仰は・・・と書きかけて調べ始めたら、これがまた難しくも面白くて枝葉繁りまくり。で、詳細は次回以降に譲ることとする。
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何だかずいぶん日が経ってしまったけれども・・・

祇園信仰は、仏教で天竺の祇園精舎を守護するとされた牛頭天王/ごずてんのうを本地、須佐之男命/素戔鳴尊を垂迹とする、本地垂迹思想に基づくもの。さらに、薬師如来を本地、牛頭天王を垂迹とする考え方もあるそうな。
インドの神様が仏教と融合してまた日本の神様と合体して・・・てな感じの、根っからInterracialな信仰です(^^)

しかしこの牛頭天王というのがまたよくわからない。牛の頭をして角も生えてるという異形に表され、疫病等を司る災厄神であったのは間違いないようだが、その根拠やら祇園精舎の守り神とされた理由やらにはいろいろ議論があっていまだに定説を見ない様子。
もとはインドの神だったという点についても、そのサンスクリット名は、漢名の牛頭天王からの逆成ではないかという説もあるぐらいで、何だか根拠があやふや。
もともと仏教に敵対する暴力神としての性格があったんじゃないかと思ったのだけど・・・。ひょっとすると、閻魔大王の手下の獄卒、牛頭・馬頭/ごず・めずとの混同ぐらいはあったかもしれないな。
スサノオはんもそないにようわからん神さんとくっつかいでもええのに。

話を一層怪しくするのは、陰陽師がこの信仰の隆盛に一枚噛んでいるらしいこと。蘇民将来伝説とも絡んで。
牛頭天王(または武塔天神)が、八大竜王の一人であり竜宮の王でもある沙羯羅/娑伽羅/しゃがら/さーがら竜王の娘を娶りに出かけた際、日暮れて宿を求めたところ、富裕な弟、巨旦/巨端/巨丹/古単/こたん将来はこれを拒んだのに対し、貧しい兄、蘇民将来は快く受け入れてもてなした。これに感じた牛頭天王は、願いの叶う「牛玉」を与え、以後蘇民は富貴となる。
(「うしだま」って変なの!と思ったらそうじゃなく、「ごおう」と読んで、「牛王」すなわち牛の胆嚢から取った「牛黄」のこと。熊胆/くまのいの親戚筋ですな。あれっと思って調べてみたら、熊野三山の護符で、武家や遊女の起請文、すなわち熊野誓詞にも使われた「牛王法印」てのも、もとは牛の胆汁を溶いて印を捺したものだった。祇園社の場合は「牛玉法印」と書いたのだとか)

熊野本宮の牛王法印

竜宮に赴いた牛頭天王は、紗羯羅竜王の三番目の娘、頗梨采女/波利采女/はりさいにょ(=善女/善如竜王)を妻として八年留まり、八人の子をなす。
竜宮からの帰還に際し、牛頭天王は巨旦に報復してその一族を悉く殺すが、ただ一人、巨旦の妻となっていた蘇民の娘には「茅の輪を腰に巻きつけよ」と告げてこれを目印に救い、また、疫病あらば「蘇民将来之子孫也」と唱えて茅の輪を身につければこれを免れると教えた(この時に「我は須佐之男なり」と名乗るバージョンも)。
以上が蘇民将来の伝承で、バリエーションはいろいろあるが、これを陰陽師たちが牛頭天王に結びつけて伝播していったらしい。

それにしてもヤな話だ。牛の頭をしたいかつい男に一宿一飯を惜しんだからといって、8年後に皆殺しに遭うなんて。ストーカーも裸足で逃げ出す、というよりほとんどホラーですがな。まあ、災厄神だからしょうがないか。

この話は、今も各地の神社で行われる夏越の祓/なごしのはらえの茅の輪くぐりの起源譚ともなっているし、当初は荒御霊を鎮めるための祭礼だった祇園会が、無病息災の祭りとなっていった経緯とも符合する。京都盆地も疫病の多い土地だったんでしょうな。

全国の祇園会が例外なく夏の祭りなのは、きっと夏に伝染病が流行蔓延しやすかったからでしょう。(インフルエンザはなかったのかな)
一方、冬の最中に行われる無病息災の祭りと言えば、岩手県を中心とする蘇民祭がある。その名のとおり蘇民将来のお祭りだけど、むしろ裸祭りとして知られ、代表格の黒石寺/こくせきじ蘇民祭でも、2005年までは全員一糸纏わぬ全裸というのが決まりだった(ただし参加が許されるのは男子のみ)。
奥州市の作った「胸毛の濃い裸の男性が大きく写った」黒石寺蘇民祭のポスターが、JR東日本から「女性客に不快感を与えセクシャルハラスメントに該当するおそれあり」として掲出拒否されたニュースは記憶に新しいところ(2008年)。さらに地元警察が「宗教行事であっても猥褻物陳列罪が適用され得る」(「チン列」と書いた方がいいかな?)と茶々を入れたり、一方、時の文科相まで「伝統文化に警察が判断を下すのはそぐわない」と応戦したりで、かえって全国的に知られるところとなり、この騒動の経済効果は30億円を超えたという試算もあるそうな。
まあ、その道のマニアには「チッ、これで正しい裸祭りが日本から絶滅した」とお嘆きの諸兄諸姉もおありのことでしょう(^_^;)

私見ながら、「ハラスメント(の防止)」と「個人情報(の保護)」が全てに優越してオールマイティに力を及ぼすという現在の仕組みは良くないと思います。だって社会はそこまで成熟してないもん。
これらの概念で保護されるべき法益が、他の(既存の)概念ではどうにも護られないものなのか、この概念があるからこそ護られる法益があるのかどうかが、まずツルにはまだよくわかりません。
それはまあ措くとしても、この二つの概念は特に、法益の保護を確実に行おうとするのなら同時に、本法益の限界や他法益との衝突や権利濫用制限といった問題も真摯に考えていかないと、視野の狭量な社会ができあがるだけという気がする。今はまだ受忍限度論の範疇にとどまっている、あるいは誤謬が蔓延している段階ではないのか。それに、振り込め詐欺だって悪徳リフォームだって名簿流出だって一向に減ってないじゃないか。
その意味で、個人情報保護の法制化(2003年)は拙速の謗りを免れない気がします、ツルは。

To be Continued...

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