上椎葉ダム慰霊碑のこと(続続) -65年前へのタイムスリップ その2-
【2021.12.08 加筆】
(承前)
原田種夫は当時の九州の文壇では有名だった文士だけど、父親はいつもあまりよく言っていなかったっけ。この碑文のことがあったからなのだろうか。日記の記述からして、原田は九電に勤めていたのかと思ったら違っていて、西日本シティ銀行のサイト「ふるさと歴史シリーズ 博多に強くなろう」に、「原田さんは、詩人では食べていけない。それでツテを頼って、福岡貯金局に勤めています」とあった。
ただし、1961年(昭和36年)11月に発行された同社社史「九州電力10年史」は原田が「編集校閲」を担当しているので(「装丁・美術」は福岡に永く君臨した童画系イラストレーター/デザイナー西島伊三雄)、1956年頃から何らか同社と係わりがあったとしてもおかしくはない。
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(Wikipedia 原田種夫 抜粋)
原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16日 - 1989年(平成1年)8月15日)は日本の小説家、詩人。本名は種雄(たねお)。
略歴
1901年(明治34年)2月16日 - 福岡県福岡市春吉にて出生する。1921年(大正10年)に西南学院中学部を卒業し、法政大学予科英文科を中退する。
1928年(昭和3年)- 山田牙城らと詩誌『瘋癲病院』発行する。以来、個人誌『銛』、詩誌『先発隊』、『九州詩壇』、『九州芸術』を次々に創刊する。
1938年(昭和13年)- 火野葦平、劉寒吉らと第二期『九州文学』を発刊する(昭和58年休刊)。
1939年(昭和14年)-『風塵』で第10回芥川賞予選候補になる。
1940年(昭和15年)-『闘銭記』で第1回九州文学賞(小説部門)を受賞する。
1943年(昭和18年)-『家系』で第18回直木賞候補になる。
1953年(昭和28年)-『南蛮絵師』で第30回直木賞候補になる。
1954年(昭和29年)-『竹槍騒動異聞』で第32回直木賞候補になる。
1972年(昭和48年)- 西日本文化賞を受賞する。
1976年(昭和51年)- 福岡市文化賞を受賞する。
1989年(平成1年)8月15日 - 死去、88歳。
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結局、上椎葉ダムの慰霊碑文の起草がなぜ父親のところに回ってきたのかはわからない。確か文書課とかにいたこともあるから、社内でまあそこそこ文章の書ける奴、みたいな見方をされていたんだろうか。若い時には短歌も多少詠んでいたから、国文学の穴山先生の薫陶を受けていたことは間違いないだろう。
時代的に見れば、戦後、文語体から口語体に日本語の文法が大きく転換していった頃に20代半ばだったわけで、そこで文章を書くような仕事をしていたせいか、確かにその年代のヒトにしては言文一致体の作法や新かな遣いなどにはうるさかった記憶がある。九州電力の「会社公用文の書き方」を最初に作ったのも父親のはずだし、新聞用語の書き方の本は折に触れよく参照していた。8歳年下、昭和一桁生まれだった母親(女学校時代は戦時中で、軍需工場で勤労奉仕の鋲打ちなんかばかりやらされていたそうである)がつい「さうです」「よかつた」「行きませう」などと書こうものならツッコミ入れてましたもん。「事」「物」「為」「様(よう)」などの形式名詞は現代日本語ではかな書きするのが正式であること、「一ヶ月」という表記は旧式であることなんかも子供の頃から父親に教え込まれました。
父親は、上椎葉ダムの落成記念式典のようなものには出席した形跡がない。もっとも翌年の夏には再び現地を訪れており、その時初めて慰霊碑の現物を目にしたようである。
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1957年
8月31日(土)晴
6時40分から高山君とダムをみにゆく。金色さんぜんたる慰霊碑をも眺めカラーフィルムにおさめる。露出がちょっと心配。8時すぎ宿に帰る。
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あ、既にカラーフィルムは発売されていたのだね。この時は別にわざわざ慰霊碑を見るために再訪したわけではなく、ダム放水に伴い遭難事故が起こって訴訟になり、その実地検証のため(今度は公式に!)出張したものらしかった。
もう一つ、今回わかったことがありまして。
以前から不思議ともおかしいとも思っていたのは、1956年2月にこうしたあれこれをやっていたのに、実際の慰霊碑の建立日付が同じ1956年2月になっているということ。
これは縦書きで「二月」ではなく「一一月」、つまり「11月」をツルが誤記していたのかもしれない。画像を見ると、確かに「一一月」と書いてあるようです。
また、「殉職者氏名を50音順に並べる」ということが実際にそのようにされたことも確認できました。
105名の犠牲者の名前は父親の原稿には残っていなかった。一つ一つ刻みつけることは、もしかしたら実行に至らなかったのではないかと思うところもあったので。
Wikipediaの上椎葉ダムの項には、この慰霊碑のことまで出ています。
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数々の難工事を経て、1955年(昭和30年)にダム・発電所は完成した。総工費約130億円、建設に従事した労働者延べ500万人と九州電力の社運を賭けたプロジェクトは大団円を迎えた。だがこの栄光の陰に、難工事によって105名の殉職者を出す結果ともなった。完成時ダム近傍には彫刻家富永朝堂の作による仏教・キリスト教・水神の3女神像を建立した「女神像公園」が整備され、公園内に慰霊碑が建立された。これは日本発送電時代からダム建設に携わった九州電力初代社長・佐藤篤二郎やダム工事の共同企業体である鹿島建設・間組・熊谷組・奥村組の各社長が施主となって、尊い人命を失ったことへの痛恨と追悼の意を込め建立したものである。
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この場所にはその後も行っていない。いつかは行けるんだろうか。いや、きっと行く。
願わくば花の下にて春行かむ
その如月の望月の頃
長々しい駄文、誠にお粗末様でした。
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