« 上椎葉ダム慰霊碑のこと -ご当地キャラに寄せて- | トップページ | 上椎葉ダム慰霊碑のこと(続続) -65年前へのタイムスリップ その1- »

2012年12月22日 (土)

上椎葉ダム慰霊碑のこと(続) -ご当地キャラに寄せて-

(承前)

 

この原稿には、起草した社員による次のような文章が附されており、意図したところが窺い知れてなかなか興味深い。

 

-----
慰霊碑文作成の方針

 

 近代的な慰霊碑にふさわしい碑文たらしめようと期した。適切な詩の一句なども気が利いていると思われるが、一応簡単に碑作成にいたる事情等にも触れた碑文とした。従来、碑文には漢文直訳式の難解な語句を使用したものが多いが、つとめてこれを避け、平易かつ明快な文章を念願して作成した。
 以上の基本方針に基づき、具体的には当社の社用文の書き方に則って、当用漢字と現代かなづかいによる左横書を採用する。碑文の予定スペースを二分して、左側に碑文、右側に殉職者氏名を50音順に並べる(別図参照)。文字は、活字の明朝体とし(算用数字を入れる関係もある。)、字体も当用漢字字体による。なお、年号に「昭和」を採用せずに西暦を採用したのは、遠い将来のことを考慮に入れたからであり(学校の国史教育にも西暦を採用していると聞く。)、建設の起算点は、建設所開設のときとし、費用についても計算の方法によっていろいろ異るらしいが、上椎葉とも相談のうえ、「130億円をこえる」という表現にした。犠牲者の数についても多すぎるという見方もあろうが、直接間接、上椎葉の建設に従事して生命を捧げた人全員を対象とする碑文とした。
 最後に、この碑文は、九州大学国文科の穴山孝道先生の校閲を願ったものであることを付記する。
                  (● 記)
-----

 

横書きの碑文!今だってなかなかないんじゃ?
なんだか、起草者の思いだけじゃなく、時代の雰囲気とか匂いまで伝わってくる感じ。文章もスタイルも、昭和31年としては相当新しいというか破天荒な提案だったろうと思います。

 

 

 

 

 

実は、この社員というのはツルの父親です。1999年に亡くなった後、遺品の中にこの原稿を見つけました。薄葉紙に和文タイプで清書されて。

 

上椎葉ダムの自慢は時々聞かされてたけど、何だろうこれ。お父さんこんなことに関わってたんだ。(普通の会社員だったけど)いろんなところに文章を書いたりしてたし。遺稿集が一冊出せるぐらい。
そうだ、穴山先生というのは確か旧制福岡高校(戦後の九州大学教養部)時代の恩師だ!
その後、いろいろ調べたりしてわかってきたのが前回のようなストーリーです。

 

実際には、その後会社の上層部の意見もあって文章にはそれなりに修正が入り、レイアウトも横書きではなく縦書きとなりました。日記からは、そのあたりでそこそこ腐ってたことも確かめられた(笑)。思い入れも強かったんでしょう。

 

慰霊碑に刻まれた最終版の文章は次のとおりです。(上述したように現物は縦書き)

 

-----
完成のかげに

 

 一九五〇年二月、わが九州電力が、創立以来の総力を傾けて着手した上椎葉発電所建設工事は、五年余の歳月と延人員五〇〇余万人の労力を動員し、一三〇億円をこえる巨費を投じて、一九五五年五月に完成し、歴史的な発電を開始いたしました。
 近代科学技術の粋を盡し、従事者全員が協力一致した成果は、高さ一一〇メートル、長さ三四〇メートルの巨大なダムとなって静かな耳川渓谷にそそり立ち、せきとめられた湖水は、一四〇メートル余を落下して、九〇,〇〇〇キロワットの電力と化し、九州の産業発展の一大原動力となるにいたりました。
 この世紀の難事業完成のかげには、どんなに多くの血のにじむ苦闘と犠牲が払われたことでありましょうか。じっさい、上椎葉発電所建設工事こそは難工事の最たるものでありました。ダム建設のおり、その他の関連工事におきまして、わが国初のアーチダム採用という工事の困難さに加えて、毎年の台風の襲来は不幸にして、少なからざる犠牲者をだしたのであります。このことを思うとき、われわれは、悲痛きわまりない感慨にうたれるものであります。
 いまや、建設工事は完了し、上椎葉の里に巨大な弧を描くアーチダム、その他の偉業を残し、建設関係者は、この地を去る時がまいりました。われわれは、この建設の大業を一望のもとに見おろす秀麗な湖畔を選び、ここに一基の慰霊碑を建立し、尊い殉職者の芳名を千載残すことにいたしました。在天の霊よ願わくば、われわれの微意を了とされ、殉職者諸兄姉の心血凝って成った偉業の成果をしずかに見守って下さい。    合掌

 

  一九五六年二月建立
     施主 九州電力株式会社 社長 佐藤篤次郎
     同  鹿島建設株式会社 社長 鹿島守之助
     同  株式会社 熊谷組 社長 熊谷太三郎
     同  株式会社 間 組 社長 神部満之助
     同  株式会社 奥村組 社長 奥村 大平
                 外十社
-----

 

身贔屓するわけじゃないけれど(^^;ツルは草稿の方が好きです。リアルに携わった者の現場感覚みたいなものが、よりダイレクトに感じ取れるから。言葉もより磨かれている気がする。若かったんでしょう、書いた人も、時代も。そんなことだって、時が下った今だからこそ言えるのかもしれませんが。

 

犠牲者数が削られたのは、やはり何らか圧力があったのか。こちらの文章は現在椎葉村のホームページにも掲載されていますが、説明の中できっちり「105名の殉職者」と明記してあるから、結局ツルの父親の意図は生き残ったのかなと(笑)。ただ、草稿には「102名」とあったので、数に差があります。もう半世紀以上前のこと、調べようもないでしょうが。

 

ツルはこれを見つけた後、同ダムの管理事務所に「これこれの事情なんですが、今でもこの碑があるのか教えて下さい」と問い合わせたんです、手紙だったかFAXだったか。すぐに丁寧な返事がFAXで届いた(これまた時代を感じますね)。今でも湖畔にちゃんとある旨書いてあって、簡単なスケッチまで添えてありました!九電の方、ご丁寧にありがとうございました。

 

この慰霊碑は今も九州電力により管理と供養がされている由。周りは整備され、慰霊のために仏教、キリスト教、水神を表した三女神の像(九州の彫刻家冨永朝堂による)も建立されて「女神像公園」と呼ばれているとか。春には桜が美しいそうです。

 

父親はツルに慰霊碑のことを話すことはなかった(と思う)し、もちろんツルは一度も行ったことがありません。けれど、いつか必ず訪ねてみるつもり、生きてるうちに。

 

思わぬ問わず語りになっちゃいましたが、ご当地キャラの全国公募のことなんか考えていて、どうしてもこのことが頭から離れなくなったものですから。
失礼いたしましたm(__)m m(__)m

« 上椎葉ダム慰霊碑のこと -ご当地キャラに寄せて- | トップページ | 上椎葉ダム慰霊碑のこと(続続) -65年前へのタイムスリップ その1- »

Visual界:キャラクター/シンボル/ロゴ」カテゴリの記事

コメント

はじめまして

文中にある穴山孝道というのは、私の大叔父です。
まだ私が幼い頃に病を得て他界されたので、面識も思い出もないのですが、九大にいたことだけは知っていました。

祖父の兄がどのような人だったのか、知りたいと思うようになったのは、まだ幼かった二人を泣く泣く養子に出して、他家に再嫁しなくてはならなかった曾祖母の、せつせつと子供を思う気持ちをつづった手紙が見つかったからです。正確には祖父がまとめておいてくれたものなのですが、いま、それをパソコンに起こしています。穴山孝道について検索していたら、こちらのページに出会うことができました。

できあがったら親戚に見せたいと思っているのですが、上記碑文をコピーさせていただいてもかまわないでしょうか。よろしくお願いします。

田口 麗さま

管理人をしております、鶴 克彦と申します。

メッセージを拝見し、大変に驚きますとともに、深く感銘を受けております。

もちろん、どのようにお使いいただいても結構です。

1999年に亡くなった私の父、鶴 健一は、戦争直前の1938年4月から1941年3月まで旧制福岡高等学校に学び(文科乙類)、
穴山孝道先生は、その時の恩師でした。特に目をかけて可愛がっていただいたようです。
卒業後も長くお付き合いをさせていただいていたらしく、私も時折、穴山先生のことは聞かされた記憶があります。
父はその後、東京の大学を2年半で卒業(時局柄、年限が短縮されたものです) → 召集 →
海軍 針尾海兵団(長崎:現在ハウステンボスのあるところです) → 海軍経理学校築地分校(東京) →
横須賀海軍航空隊と所属し、戦争直後の混乱の後、
戦時の国策企業、日本発送電株式会社(九州電力株式会社等の前身)に入社し、
九州電力に1975年の定年まで勤務していました。主にスタッフ部門、間接部門に所属していたようです。
上椎葉ダムの慰霊碑文の話が舞い込み、穴山先生に文案を見ていただいたのは1956年のことですから、
高校卒業後、実に15年も経ってからで、そこからしても
交流の深さ、師弟の絆の強さがおわかりいただけるかと思います。

思い切って愚blogにこの碑文のことを書き、その中にあった「九州大学国文科の穴山孝道先生」の一言が、
10年近く経ってこのような思いがけない展開を生んだのかと、誠に不思議にも感慨深くも感じます。

ひいおばあさまやおじいさまご兄弟のことは、ご事情もいろいろおありだったでしょうが、
もう随分と昔のことではありましょうし、ご親族にお見せになるのみならず、
ネット等で公開されることを考えられてもよいのではないでしょうか。
それがその時代の市井の人間の生き様の証しとなる限り、そうやって残す価値もあるのではないかと思います。
実は私自身、そのように考え始めているところもありまして、
父がいろいろと文章を書き散らかして遺していたようなこともあり(データ起こしは20年前に済ませてあります)、
今後いくらかは愚blogに上げてみようかと思ったりしているところです。
ツルの場合、父が母に(結婚し、第一子の誕生後に書いた)巻き紙に筆書きの恋文(!)なんてものもあったりしますww。

もしお差支えなければ、お教え下さい。
大伯父様がお亡くなりになったのは何年頃のことでしょうか?
また、父はいつも「あなやま こうどう先生」と呼んでいましたが、「こうどう」が正しい読み方でしょうか、
あるいは「たかみち」などのお名前を父が有職読みしていたものでしょうか?

なお、ご興味がおありかと思い、この碑文作成の頃の経緯など、近日中に少々まとめて
本項と同日付(2012年12月22日付)で別項としてアップできればと考えております。
ご笑覧いただければ幸いです。

鶴 克彦

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 上椎葉ダム慰霊碑のこと(続) -ご当地キャラに寄せて-:

« 上椎葉ダム慰霊碑のこと -ご当地キャラに寄せて- | トップページ | 上椎葉ダム慰霊碑のこと(続続) -65年前へのタイムスリップ その1- »

2022年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想