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2013年7月28日 (日)

屈辱 → 雪辱の構図(黒田節・小式部内侍・草紙洗小町・伊勢大輔・山部赤人)

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福岡民謡「黒田節」に唄われた家臣の母里太兵衛が天下の名槍を呑み獲った故事も、実は中津時代(1587年〜1600年)のことだぞって主張がある。
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筑前国黒田藩士の母里(ぼり/もり)太兵衛(たへえ/たひょうえ)友信は、武名轟く勇将であり、また「鱶」と渾名される酒豪でもあった。

1596年(文禄5年)正月、主君長政の使者として伏見の福島正則のもとへ遣わされた際、正則に大盃の酒を強いられて一旦は断る。なおも正則に「呑み干したならば望みの褒美を取らす」、さらには「全く黒田武士こそ酒に弱い役立たず」などと煽られ、ついに大盃を取って数献見事に呑み干す。
これ、どっちかっつうと挑発を受けて一線を越えてしまったというアカン話ではないか。でもここからの駆け引きがちょっと面白い。
太兵衛はとりわけ槍術に長けており、正則が秀吉から拝領した名高い槍を所望する。状況一転、「武士に二言あるまじ」の追い討ちをかけられ、正則は家宝を差し出す不覚を取った。
この槍、銘を「日本号」といい、現物が今も福岡市博物館にある。黒田節の歌詞に「日の本一のこの槍を」とあるのはこの銘から来たもの。天下三名槍の一つにして究極の大身槍とされているそうな。
以上はいわば大酒呑みのおっさんたちのはしたないオハナシであって、特に粗暴粗野なイメージの固定している福島正則にはよくある「酒の上の失敗」。家臣と酒を飲んでいて、何に激昂したか切腹を命じ、翌朝その首に取りすがって泣きながら詫びたなんて逸話もあるらしい。

しかしこの手の雪辱話、他にもいろいろある気がする。

最も人口に膾炙しているのは「十訓抄」に見える小式部内侍の話だと思う。

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和泉式部、保昌が妻にて丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに、小式部内侍、歌よみにとられてよみけるを、定頼の中納言、たはぶれに小式部内侍に「丹後へつかはしける人は参りにたるや」と言ひ入れて局の前を過ぎられけるを、小式部内侍、御簾よりなかば出でて直衣の袖をひかへて

大江山いくのの道の遠ければ
 まだふみもみず天橋立

とよみかけけり。思はずにあさましくて、「こはいかに」とばかり言ひて、返しにも及ばず袖をひきはなちて逃げられにけり。小式部、これより歌よみの世おぼえ出で来にけり。
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小式部が宮中の歌合に召されることとなった際、母親の和泉式部が夫藤原保昌とともに任国丹後に下っていたため、同じく歌合に召されていた藤原定頼が「母上に頼んだ代作の返事は来たか」と言い掛けたその袖を捕らえ、即座にこの歌を返して大いに歌名を高め、一方定頼卿は思わぬことに驚き呆れて礼儀も忘れ、返歌さえ詠み得ず赤恥をかいた、という逸話。
さしずめ、セクハラおやじをやり込めてしまった才気煥発新人OLってとこ。華やかな技巧に満ちた歌と当意即妙の切り返しはウケる要素たっぷりだぜ。
この歌は小倉百人一首にも採られているし、中学か高校の教科書にも載ってたっけ。「思はずにあさましくて」のフレーズが妙に頭に残ってるんだよね。

黒田節と共通しているのはいわれなき侮蔑と我慢、一転して才覚で見返すってとこだろう。

能の「草紙洗小町」にも似たところがある。この絵を描いた上村松園の随筆集「青眉抄」から。

上村松園 草紙洗小町

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小町の“草紙洗”というのは、ご存じのとおり、宮中の歌合せに、大伴黒主が、とうてい小町には敵わないと思ったものですから、腹黒の黒主が、小町の歌が万葉集のを剽窃したものだと称して、かねて歌集の中へ小町の歌を書きこんでおき、証拠はこの通りといったので、無実のぬれ衣を被た小町は、その歌集を洗って、新たに書きこんだ歌を洗いおとし黒主の奸計をあばくという筋なのです。
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稀代の美女小野小町を題材にした謡曲はいくらかあって「七小町」と呼ばれているけれども、「卒塔婆小町」をはじめ、歳を取り落魄した姿を描くのが通例で、若く美しい小町が出てくるのはこれだけではないか。

時代の異なる六歌仙が一堂に会しちゃうし、いにしえの大切な歌集を水洗いしちゃうし、そしたら新しい墨だけ流れ落ちちゃうしという、時代考証とかリアリティとかはまるで気にしてない豪放磊落荒唐無稽譚だけど、やっぱり汚名を雪ぐスカッと感で人気ある演目のはず。松園は当時、金剛流の草紙洗を観て感銘を受け、これを面と演者が一体となった姿に描いて文展に出した。「序の舞」の翌年、昭和12年のこと。

似た雰囲気のあるものをもう一つ。「伊勢大輔集」から。

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女院の中宮と申しける時、内におはしまししに、奈良から僧都の八重桜を参らせたるに、今年のとりいれ人は今参りぞとて紫式部のゆづりしに、入道殿きかせたまひて、ただにはとりいれぬものをと仰せられしかば

いにしへの奈良の都の八重桜
 けふここのへににほひぬるかな
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これも百人一首に採られた歌。
当時、一条帝の后、中宮彰子づきの新参女房であった伊勢大輔(いせのたいふ/おおすけ)が、南都から献上の桜の枝を受け取る役目を紫式部から譲られた折、しきたりがよくわからず黙って受けようとしたため、藤原道長から歌を詠むよう促されて、即興で詠み下したということになっている。
技巧に走って、大して深い内容ではないけれど、舞台装置が華やかに平安絵巻。今を時めく宮廷一の才媛から大役を譲られたプレッシャーが新人にのしかかるという設定も効いている。ここでも周囲の期待と不安を背負いながら、咄嗟の機転で大面目を施すわけ。

中 勘助の短編集「鳥の物語」の巻頭にある「鶴の話」も挙げておこう。聖武帝紀伊行幸の際、山部赤人が一首の和歌を詠み上げるまでを描いた珠玉の掌編。

和歌の浦に着いて帝の命により「鶴」を題に歌を詠みかかったものの着想が湧いて出ず、じりじりと時間ばかりが過ぎていくうち、いつの間にか満ちてきた潮が群れ居る鶴に波と打ちかかり、不意を突かれた鶴たちが御場所柄をも忘れずかうかうと鳴き連れて飛び立ったその時、赤人夢から覚めた如くはっと我に帰り、たちどころに

和歌の浦 潮満ちくれば 潟をなみ
 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る

と詠み上げた。帝も御感ななめならず、「やよ赤人、今まではそちを歌の上手とばかり思うていたがまことにそちは歌の名人じゃぞ」との仰せごと。
鶴たちにも褒美をとて連れ戻させ、やおら御手をのべさせられて一羽一羽頭を撫でられたところ、さすが日の御子の御手に触れて彼らの白い頭がみるみる日の出の色に染まった。
「これがめでたい丹頂のいわれでございます。」

危機一髪と逆転満塁ホームラン、劇的に効いている。

こういう趣向も、歌舞伎あたりになると乱発しそうだよなあ。あんまし詳しくないけど。

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