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2013年10月14日 (月)

新田神社 破魔矢縁起(下)

(承前)

どうやら、新田大明神の伝承には常に「矢」がついて回る様子。義興最期の場所が矢口の渡しだし、神社の場所も矢口だし。
新田神社の裏手、いかにも古墳ぽい小さな岡に今も生えている「矢竹」は、決してこの神域を越えて生え出ることがないとか、雷が鳴るとピチピチと音を立てて割れたとかいう言い伝えです。

これまた神社のサイトによると、江戸時代半ばの宝暦年間(1751〜1764)には既に、門前の茶店(今はそんなものありませんよ、カフェはあるけど)で「義興の矢」という土産物が売られていたらしい。
これを、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊をつけ魔除けとして売り出すように勧めたのは、大江戸のアイデアマン、平賀源内(1728〜1780)。二本を買って一本を奉納し、一本を持ち帰って「矢守」にするという企画で、源内先生、なかなか手が込んでいる。

これ、新田家には、その祖先という平安中期の源頼光の代から「水破/すいは」・「兵破/ひょうは」という二筋の矢が家宝として伝わっていたという伝説を踏まえたものです(名前がかっちょええ)。
源頼光は土蜘蛛退治や大江山の酒呑童子退治の逸話で知られたお人。配下に渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(公時)らの「頼光四天王」がいる。綱には一条戻り橋で鬼の腕を切り落とした話もあって、謡曲「羅生門」はこの舞台を羅城門に変えて作られたもの。一条戻り橋と言えば陰陽師安倍清明ですが、清明はこの時も鬼の腕を封じている。実は清明の家は頼光の屋敷のお向かいだったそうで。
坂田金時は金太郎の長じた後の名前ですね(cf. 2013.01.06「金太郎出世譚」)。酒呑童子退治には「道長四天王」の一人、藤原保昌も出かけており、その妻が和泉式部、その連れ子が小式部内侍(cf. 2013.07.28「屈辱 → 雪辱の構図」)。ああガジェット満載時代。

枝葉繁り過ぎ。水破・兵破の矢の話がまた込み入っていて、「源平盛衰記」によると、頼光が夢の中で、楚の国の弓の名手、養由基/ようゆうきの娘、枡花女/しょうかじょから「雷上動/らいじょうどう」の弓とこの二筋の矢を授けられたとされている。水破は黒鷲の羽根の鏑矢、兵破は山鳥の羽根の鏑矢。
養由基はこの弓矢を文殊菩薩から授かり、しかしこれらを受け継ぐべき者を見出せず700歳で娘に託して死に、枡花女も己れの寿命が尽きようという時に頼光のことを知り、その夢枕に立って弓矢を与える。まー、稀代の重宝ですわな、そりゃあ。
しかし、史実としては義興は頼光(源満仲の長男)の直系ではなく、頼光の弟の頼信(満仲の三男)の13代目(数えました)の裔だし、しかもこの弓、頼光側の5代目の頼政が宮中の鵺/ぬえ退治に使っている(平家物語や謡曲「鵺」で知られたお話)。そんなお宝がいつの間にか義興側に移ったとは考えにくいですがね。

源内は福内鬼外/ふくうちきがいのペンネームで、義興謀殺と水破・兵破の矢の伝説を題材に、人形浄瑠璃「神霊矢口渡/しんれいやぐちのわたし」を書き上げます(1770年:明和7年初演)。上方中心の浄瑠璃には珍しい、江戸浄瑠璃と呼ばれるジャンルの代表格です。新田神社境内からお話が始まるんだよ。現在よく上演される四段目のあらすじは;

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渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯と傾城の臺/うてながやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峯に一目惚れしてしまいます。そのため、叶わぬ恋と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃しました。それを知った頓兵衛は後を追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を斬り捨て、後を追って行きます。瀕死のお舟は二人を逃がすために太鼓を叩いて追手を欺きます。追いすがる頓兵衛を、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。
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この演目は大ヒットし、歌舞伎にも移された。義峯(リアルには「義宗」)は義興の弟で、頓兵衛は義興を殺した渡し守。「太鼓を叩いて追手を欺く」というのは、太鼓を叩けば義峯一行が捕まったと思って追手が包囲網を解くからという意味で、歌舞伎ではこの場面は浄瑠璃の趣向で「人形振り」で演じられます。ちょっと「八百屋お七」に似ている。

「矢」つながりはそれだけじゃありません。父親の義貞が「矢口の渡し」の戦いで地蔵菩薩の名号を書いて射た「矢」が多摩川を越えて横浜鶴見の夜光の地に飛んで松の木に刺さり、それを「矢止めの松」と呼び、そこに「矢止め地蔵」を祀った。さらに、その時から夜光の地を「矢向」と書くようになった(JR南武線に「矢向駅」があります)。
因みに多摩川にあった「矢口の渡し」は1949年、多摩川大橋の完成とともに廃止されたけど、その名は東急多摩川線の「矢口渡駅」に今も残っています。武蔵新田の隣駅。

徳川将軍家が新田氏出自を唱えた(その上を辿れば清和源氏)こともあってか、新田神社参拝は庶民にも流行し、源内先生考案の「矢守」も破魔矢として広まっていったわけ(破魔矢の由来にはむろん別説もありますが)。

これがめでたい新田大明神 矢守のいわれでございます。

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