« もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その116:八幡市観光協会・屋島PR) | トップページ | 吉田神社から春日大社、そして坂東まで足を延ばしてみた »

2014年10月22日 (水)

仁和寺から八幡宮へ歩いてみた

徒然草の「仁和寺にある法師」と平家物語の「扇の的」は、とりわけ人口に膾炙してきたお話です。誰もが口にする「なます」と「あぶりもの」、ね。

とりわけ前者は懐かしいでしょ、中学の授業で。

-----
仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、あるとき思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。 極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、傍への人に会ひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
-----

優れていると思うのは最後の書きぶりです。くだくだしい説明を一切省いて「先達はあらまほし」でストンと断ち切っているんですね。ある意味とってもpedantic。この時代の都人にとって、石清水八幡の本社が山の上にあるということは周知の事実だったのだろうか。

仁和寺1
この法師が住んでいた仁和寺は、京都市の右京区御室にある真言宗御室派のお寺。皇族が門主となる「門跡寺院」の始まりとなった名刹です。遅咲きの桜の名所としても知られ、花見に行きそびれたらここへ行けというのは京都人の常識。これは「御室有明」という大輪の品種で、丈低く仕立てられ「花(鼻)は低いが人の好く」として「おかめ桜」と呼ばれる(こんなことはガイドブックにも載ってますが)。そして御室と言えばオムロン株式会社の発祥の地でもありまする(もっとも今はずっと南、下京区に本社があるけど)。
因みに吉田兼好が庵を編んだ双岡(ならびがおか)は御室のすぐそば。仁和寺のうつけ坊主のことは、口さがないご近所雀の噂話になっていたのかもしれない。

石清水八幡宮 流れ左三巴
一方、京都府八幡市(やわたし)の石清水八幡宮は日本三大八幡宮の一つに数えられ(他の二つは宇佐神宮、および筥崎宮または鶴岡八幡宮)、近代社格制度における官幣大社、どぉ〜〜ん。都の鬼門を護る叡山延暦寺に対し、南西の裏鬼門を固める配置だとされている、どどぉ〜〜ん。

で、ちょいと調べてみました、八幡宮のこと。

八幡神はとりわけ武士の尊崇を集めた神様で、「南無八幡大菩薩」とも崇められるとおり神仏混淆しながら発展し、八幡宮は宇佐神宮を総本社として全国に約44,000社もあるそうな。主祭神は普通;

誉田別命/ほんだわけのみこと
比売大神/ひめおおかみ
息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと

で、これらを総称して八幡神と呼ぶ。誉田別は第15代応神天皇、息長帯姫はその母、神功皇后のことです。何となく土着信仰の神様かと思ってたら、全然違ってたのね。一方で、実在したと考え得る最も古い辺りの天皇らしいから、アマテラスやスサノオといった神話界の神々とは多少色合いを異にするのかしらん。

曲者はもう一柱の「比売大神」。この名前、固有名詞じゃないんです。石清水八幡や宇佐神宮では、これは宗像三女神(cf. 2012.03.18〜19「八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた」)のこととされている。
筥崎宮だとこの祭神は「玉依姫命」で、この名前もまた普通名詞としてよく出くわす。この場合は海神の娘で鵜草葺不合命/うがやふきあえずのみことの妻、初代神武天皇の母なる玉依姫を指していて、アマテラスとスサノオの誓約/宇気比/うけひから生まれた宗像三女神とは明らかに違う。いずれにせよ神功皇后 − 応神天皇の母子信仰と「比売大神」がセットになる理由はいまいち不明。
鶴岡八幡だと「比売神/ひめがみ」で、これも詳しいことがわかりませんが、ここは石清水から勧請されたところだから宗像三女神なのかもしれない。
さらに全国的にはいろいろあって、卑弥呼とされている場合もあるのだとか。

宇佐神宮
歴史的に見れば、宇佐神宮(大分県宇佐市)は延喜式における明神大、豊前国一の宮の官幣大社で、奈良時代に弓削道鏡即位を称徳女帝の意に反して和気清麻呂が封じた神託事件で有名だし;

筥崎宮
同じく名神大で官幣大社の筥崎宮(福岡市東区箱崎)は筑前国一の宮(ただし筑前国では福岡市博多区住吉の住吉神社も一の宮とされる)、ここは鎌倉時代の元寇の際に奉納された醍醐天皇宸筆の「敵國降伏」の扁額でも知られる(亀山上皇の筆と勘違いしている人が多いけど)。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)は国幣中社で、どうやら三大八幡宮の一つと数えるのは近年のことのようです。しかしながら何と言ってもここは実朝暗殺の舞台。1219年、鎌倉幕府第三代将軍を襲ったのは甥の公暁で、僧侶として八幡宮の神宮寺の別当(つまり長官ね)を務めていた。
公暁が石段脇の大銀杏の陰で待ち伏せしていたという「隠れ銀杏」の伝承については、当時人が隠れられる大きさがあったはずがない、江戸時代になってからの作り話だという説はよく知られていると思うけど、いやいやこれは先代の木で、今のは2代目だとする意見もあるそうな。あれ、でも古絵図にもこの木は描かれていないとかいう話ではなかったっけ。

伝承の真偽の程は別として、樹齢800年とも1000年とも言われたこの古木(やっぱり100年200年ぐらいの木じゃ大人は隠れられないよね)、2010年3月10日未明、強風で根元から倒れたのはニュースにもなりました。この椿事のその後はどうなったのか。

-----
倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された。残る2つは境内に保存される。倒壊から約1ヶ月たち、再生への努力が実を結び、若芽(ひこばえ)が確認された。
-----

現在の姿はこうです。新しい歴史が始まってんだね。

鶴岡八幡宮 大銀杏

石清水八幡宮
こうした各地の八幡宮に比べても、石清水の格式はひけを取らない。延喜式には記載がないものの、官幣大社たるに加えて、八幡宮としては唯一、宮中の元旦の「四方拝」で遥拝されています。だけどねー、いささかガジェットに乏しくて、上掲の「仁和寺にある法師」の話ぐらいなんだよね。

仁和寺2
この話は徒然草の第五十二段だけど、次の第五十三段も、「これも仁和寺の法師」が宴会で酔っぱらって鼎をかぶって踊りまくった挙句の果てに頭から抜けなくなる話(「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん」)、その次の第五十四段も「御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて」から始まる、「かわゆいお稚児さんをハイキングに連れ出して大失態の巻」で、御室仁和寺のイカレ坊主ども、いえ知識階級の赤恥滑稽譚が続きます。
因みに、その次の第五十五段がこれまた有名な「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。」というくだり。

いかにも末法思想な「人生の諦念」ぽいのが多くて、あんまり好きにはなれないんですけれどもね。

(続く)

« もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その116:八幡市観光協会・屋島PR) | トップページ | 吉田神社から春日大社、そして坂東まで足を延ばしてみた »

文化Field:神祇」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 仁和寺から八幡宮へ歩いてみた:

« もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その116:八幡市観光協会・屋島PR) | トップページ | 吉田神社から春日大社、そして坂東まで足を延ばしてみた »

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想