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2014年11月22日 (土)

流浪の民:バスの部

(承前)

でも、ほんとに興味深いのはここからだった(敢えて過去形)。ドイツ語屋氏の記述にはこんな追記が加えられている(いずれも抜粋)。

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このページを見た音楽家の方が、「こんな批評は許せん!害毒だ!」とひどく頭に来てご自分のサイトにこのページへの辛辣な批評をされています。
ぜひこのページとあわせてご覧になることをおすすめします。
しかし、音楽家の方々にとっては「書いてあることをそのまま写す」ことが「ただのつまらない薀蓄もどき」に見えるのですねえ。
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ふむ。そうだろうと思った。軽い態度で行われた批判は往々にして再批判に対しnaiveである。
音楽家氏の再批判とはどんなものであったのか。(断っておきますが、こちらの文章はネット上にはもう残されてはいません。)

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私が不満に思うのは、この方の指摘している次の2点です。

1)「ナイル川のことを、ニールと訳していることへの、許しがたいという不満」
2)「ブナが歌詞に登場しないことへの不満」
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お?何やらツルの書いたこととかぶっているような(汗)。

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上記2)にも通じることですが、ドイツ語で書かれた多量の言葉によって成る詩を、日本語でもって歌うのに、全ての言葉を歌詞として踏襲することは不可能です。ブナを後半では省略したことも、文学的なセンスだと思います。意訳も、詩全体を捉えているからこその一級芸術品です。弾むような言葉を慎重に選んで羅列したこの詩は、音読してみますと、素晴しい躍動感を持っています。それだけで「こう歌わんかな」と語っていると感じます。私の推察ですが、石倉さんはシューマンのこの曲を原語で聴かれ、それを愛し、ゆえに日本語での表現をとことん考えられた、音楽を知る人、音楽を愛する方でしょう。言語尊重は、音楽にとっては邪魔者でしかありません。
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おお、そこまで言い切るか。

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1)については、ナイル川のことを“ニール”と訳しては意味が通じないという指摘をされています。なぜ“ニール”としたかについての言及・考察が全くありません。外国語で書かれた詩(文章)を訳すのが専門の人が、Nilesというドイツ語がナイル川のことであることは当然ご存知でしょう。知らない人が適当に訳詞などするわけがありません。こういうところに対する彼の主張(不満)は、あたかも「自分は知らない言葉をそのままにして著作物を公開しています」と言っているかのようで、同業者に対する失礼極まりない行為とも言えます。
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これらに対する再々批判として考えられるのはおそらく、「趣旨はわかる、でも、歴史的背景や音韻を重んじるのと同時に言語そのものも尊重すべきであったのに、岩倉訳はそこに挑戦していない」といったところでしょう。その両方の視点を止揚する対案が欲しいということは、音楽家氏も思ったようです。

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このサイトの方はドイツ語の専門家。「ニールでは意味が通じない」というのは、私はドイツ語を知らないと仰っているのと同義ではないでしょうか。この方には、「よく翻訳できました」というのではなく、シューマンのこの曲につく“歌詞”としての訳を、対案として出してもらいたいと思います。それができないのであれば、ただのつまらない“薀蓄もどき”に過ぎないのです。
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有吉もマツコデラックスも真っ青、鬼神も三舎を避くる勢いの舌鋒ですが、ドイツ語屋氏の訳は、確かに歌曲の詞という以前に詩/言葉としての鑑賞に耐えず、フラストレーションが溜まるというのがツルの率直な感想でした。

結局はこう。

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よく大学の外国語文学部を出られた方が、外国語には堪能だが、文学的センスに乏しい人がいますが、この方はそういうタイプなのかもしれません。
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 VS

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まあ、私にも音楽家の知り合いが何人かいますから、彼らの「言語」に対する態度はなんとなくわかるのですが。
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売り言葉に買い言葉、子供の喧嘩みたくなっちゃいました

ツルにとっては、また別の筆者によるネット上の次の文章(抜粋)の方が、まだ得るところがありそう。

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ちなみにこの曲には石倉小三郎氏の名訳があるが、これは日本語としてきわめてすぐれているのであるが、ただ一点残念なことがある。訳詞のアクセントと音楽上のアクセントがばらばらで、まさに「心の旅」[註:往年のフォークグループ、チューリップの代表曲]状態となっていることである。

〔中略〕

これはしかしドイツ語と日本語という語学的構造がまるで異なる言語の移植を行っているのであるから、やむを得ないことなのであろう。(これ以上の訳詞を作れる詩人もいないだろうし)日本の合唱者たちが石倉氏の訳詞で何の違和感もなくこの曲を歌っている状況を見ても、日本人というのは日本語のアクセントには意外と鈍感であることがわかる。
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ううむ、これとて、1980年代初頭までミュージシャン達の間でも真剣に論じられていた(はずの)「日本語でRockはできるか」という議論と根は同じではないのか、なんて空虚さは感じちゃう。
個人的には、かの有名な童謡の冒頭、「♪夕焼け小焼けの あかとんぼ」の「あかとんぼ」の部分は日本語として音韻に無理があるだとか、藤山一郎は「蛍の光」の「♪ほーたーるの ひーかーぁり」の部分のアクセントの不体裁が許せなくて、紅白歌合戦のエンディングでこの歌の指揮をする時に歌い出しだけは口をつぐんでいただとか、そういうのにも?を感じてきたのですけれども。

ツルは断じる。歴史的・文化的な文脈と精神を無視して、表層に表れた言葉だけをもって論じようとするなら、それはやはり害毒です。

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