« 番外編に書けなかったこと ―― 悲劇(長和町章) | トップページ | もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その208:またべえくん) »

2018年4月 2日 (月)

番外編に書けなかったこと ―― 再生

(承前)

しかし、少年の命は、こんな形で地域の中に生き続けている。

柊馬君は地元の野球チーム「南姫(みなみひめ)クラブ」に所属する野球少年だった。

-----
(2008.10.19 中日新聞 抜粋)

亡き柊馬君への思いを語る也寸史さんと母京子さん

中津川市内で8月、ワイヤで遊んでいて事故死した多治見市南姫小6年、伊藤柊馬(しゅうま)君(11)の父親(44)が、息子の野球仲間に思いをコメントとして贈った。「野球ができることは本当に幸せ」−。野球で知った仲間への思いやりを、死の直前に作文で残していた柊馬君。天国でキャッチボールをと、父親には中日の岩瀬仁紀投手のサインボールが贈られた。
父親は多治見市大針町の美容院経営、也寸史(やすし)さん。事故は突然だった。親せきとバーベキューをした後、裏山で岩と木に渡してあったワイヤにぶら下がって遊んでいたところ、岩と落下。即死状態だった。也寸史さんは「別れも言えなかった」と声を落とす。
柊馬君は野球が大好きだった。也寸史さんの休みはよくキャッチボールをした。体はチームで一番小さく、走るのも遅かった。「野球なんてできるのかな」。両親は心配したが、ランニングや素振りを続け、6年で試合に出場するようになった。
也寸史さんのコメントは4日、瑞穂市総合センターで、別の少年野球チームの母親らも集まった500人を前に読み上げられた。「野球ができるのがどれほど幸せか。息子の分まで全力で野球を楽しんでほしい」。会場にすすり泣きが漏れた。
柊馬君は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手の大ファン。当日は也寸史さんに中日の2軍監督を務めた福田 功さんから岩瀬投手のサインボールと「このボールで、天国でキャッチボールをしてください」というメッセージが送られた。
也寸史さんは柊馬君が亡くなる直前、夏休みの宿題の作文を一緒に頭を悩ませ、柊馬君はこう書いた。
「一番大事だと思ったことは、仲間を思いやる気持ち、家族のきずな、チームワークだと思います」。
-----

さすがに涙腺を刺激されます(YAMA氏の「ユーモア川柳」ブログはこれ以前に書かれたものである)。後半の内容は、岐阜県内の少年野球指導者有志により結成された「少年勇気倶楽部」の主催した「北京五輪開催記念講演会・決勝トーナメント抽選会」でのこと。「南姫クラブ」もこの倶楽部の構成チームだった。

さらに遡ると。

-----
(2002 岐阜新聞)

昨年五月に交通事故で亡くなった岐阜市粟野西、森 祐樹(ゆうき)君=当時(9つ)、岩野田北小四年=の弟・敦暉(あつき)君(7つ)同小一年=が二十六日、野球少年だった祐樹君をしのび、本巣郡糸貫町で開かれた少年野球交流大会の始球式に臨んだ。
祐樹君は昨年五月二十一日夕、自転車で塾へ向かう途中、自宅近くの県道で大型トラックにはねられて亡くなった。
少年野球チーム・岩野田北小レッズの一員で、外野手だった祐樹君は、毎日のようにキャッチボールなどをして練習に励む野球好きの少年だったという。
この日は、少年野球の指導者有志が祐樹君の名から命名、結成した「少年勇気倶楽部」の交流大会。
岩野田北小レッズをはじめ、本巣郡や各務原市などの少年野球チーム計八チームが、糸貫川スタジアムに集った。
始球式のマウンドに立った敦暉君は、大きく振りかぶると力いっぱい投球。
キャッチャー役の父・直隆さん(36)が受け止めると、各チームの児童や父母らから大きな拍手がわき上がった。
グラウンドわきで見守っていた母の恵さん(34)は「真っすぐな、とてもいい球でした」とぽつり。
在りし日の祐樹君の姿とだぶったのか、涙ぐんで敦暉君を迎えた。
敦暉君は「僕もお兄ちゃんみたいに野球をやりたい」と感想を話していた。
-----

この倶楽部自体、そんな結成秘話があったわけです。

柊馬君の事故の後、同倶楽部には南姫クラブ有志から交流大会の準優勝カップが寄贈され、「柊杯(ひいらぎはい)」と名づけられている由。
そして年月は過ぎ去り、生きている者たちは、あるいは老い、あるいは育って、2014年夏の高校野球岐阜県大会の第一試合ではこんなことがあった。

-----
(2014.07.06 朝日新聞)

始球式で投げたのは多治見市立南姫小学校5年の大野渓太君。麗澤瑞浪で主将を務める大野祐希君(3年)の弟だ。普段は地元のサッカーチームに所属するサッカー少年だが、「大好きなお兄ちゃんの最後の大会で投げたい」と応募した。
麗澤瑞浪の野球部は全寮制。渓太君は、年に2回帰ってくる祐希君とキャッチボールをするのを楽しみにしている。始球式のために、麗澤瑞浪のグラウンドで野球部員と練習して臨んだ。
6年前、祐希君と同じ野球チームだった伊藤柊馬(しゅうま)君(当時11)が落石事故で亡くなった。「あいつの分まで投げて欲しい」という兄の思いを受け、伊藤君のグラブと、伊藤君のお父さんが作ったユニホームを着て、渓太君が投げた。
ボールはワンバウンドながら、キャッチャーの体の前に。「いつも以上の球が投げられた。ボールは柊馬君にあげる」。渓太君は笑顔で話した。
-----

「死児の齢を数える」というのは詮ないことの喩えである(前回書いたようなわけで、この諺はツルにとってはちかしいものだったが)。しかし、でもやはり両親には諦められるものではないだろうと思います。

事故後、このガイダーの活動がどうなったかを知ろうとは思わない。【2014.05.26〜06.12「公募ガイダーのモチベーション」】で、東 信慶につき、父君の死去が公募への動機づけを失わせた旨のことを書いたけれど、この場合はおそらくそれとも違って、人生そのものに対するモチベーションをどうしたら保てるのかという問題であったろうから。

ツルの福岡の実家から徒歩1分以内には、中学の同期がツルを含めて4人もいた(全員男子!)。異常な集中具合だよねと言い合ってたもんですが、学生時代、日大に入って山岳部に所属していた一人が山で遭難して亡くなった(ご両親は中学校と小学校の先生で、山で知り合って結婚したご夫婦だった)。お盆の帰省でお参りに伺った際、急に老け込まれたおばあちゃんの姿が切なかったものです。
ツルは、それ以来、そのご両親にとってはツルの姿を目にすること自体が辛い思い出を呼び起こすものではないかと思う一方、いろいろ考えるところもあって、年賀状のやり取りだけは続けている。父君は爾後、木彫で仏像を彫ることを習得され、毎年実に見事な作品を写真年賀状にして送ってこられます。それもまた、自分より先に逝った我が子の冥福を祈る手立てとして、それしかないと思われるからなのだろう。
でもね、正直、そろそろその重荷を下ろしてもいいのでは、とも思います。

« 番外編に書けなかったこと ―― 悲劇(長和町章) | トップページ | もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その208:またべえくん) »

Visual界:キャラクター/シンボル/ロゴ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 番外編に書けなかったこと ―― 再生:

« 番外編に書けなかったこと ―― 悲劇(長和町章) | トップページ | もうやめようよ、ご当地キャラとか。(その208:またべえくん) »

2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想