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2019年5月27日 (月)

【もやもや編】祀り上げられた偶像 —— 伊那まつりと勘太郎のこと

(承前)

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【その232】

伊那まつりの経緯は、「まほら倶楽部」なるサイトの「探訪 伊那の勘太郎」という論考に詳しい。秀逸です・・・。
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「伊那の勘太郎」が実在の人物でないことも、このサイトで初めて知った(伊那市サイトもそこは巧妙に避けて通ってる感じだもん)。

そもそも、この人物?が戦時中の1943年に映画化されたきっかけは、当時、ご当地民謡「伊那節」が市丸(そう、あの芸者歌手の市丸姐さんです)によってヒットしていたこと。ここに目をつけた東宝が、検閲を通りやすいよう股旅任侠ネタに尊皇志士ネタを絡めた娯楽映画に仕立て上げたものらしい。主人公の名前はこの知恵を授けた映画監督稲垣 浩のあだ名「イナカン」から取られたものとやら。

時局柄、娯楽が制限されていたこともあってか、映画は空前の大当たりを取ったそうな。
戦線で捕虜となった日本兵にも、本名を明かすことを潔しとせず「伊那の勘太郎」と名乗る者が多く出て、訝しんだ米軍が「伊那の勘太郎, who??」と調査をかけたという実話も残るほど。

戦後、大映が作った第2弾も大ヒットし、気をよくしたご当地が1958年9月に「伊那の勘太郎碑」を建てた(伊那商工会議所の創立10周年記念という性格もあったのだと思う)時も架空の人物であることは伏せられた。大映社長の永田雅一が揮毫したというから恐れ入ります。これがそのまま定着したようで、ご当地としては、その方が宣伝戦略上有利だとちゃっかり考えたんでせう。というより、「ウチこそ勘太郎の生まれ在所でござい」と狼煙を上げた出前、ひっこみがつかなくなったのかもしれない。
映画主題歌の「勘太郎月夜唄」(唄:小畑 実)もビッグヒットとなり、石碑の完成とともに始まった「勘太郎まつり」から現在の「伊那まつり」に至るまで、「伊那節」と「勘太郎月夜唄」がメインで踊られている由。

しかし年月は過ぎ去っていく。
当初、伊那商工会議所が主催し商工会の婦人連や芸妓衆によって踊られていた「勘太郎まつり」も、やがて踊り手の不足するところとなり、1973年、市役所主催で市民誰でも参加できる「伊那まつり」に姿を変えた。

さらに、昔風の歌と踊りでは参加者も減るばかりというわけで、1997年からは第三の曲として宇崎竜童作詞・作曲による「Dancing on the Road」が加わり、「ドラゴン踊り」として踊られるようになった由。全国的に高知の「YOSAKOI」やや徳島の「阿波踊り」がブームになりつつあったことも追い風になったろう。(あっ!!「竜童」作品だから「ドラゴン」になったのかな!?要検証。)

しかし、この改革策にも問題がなかったわけではない。「Dancing on the Road」は踊るが「伊那節」と「勘太郎月夜唄」は踊らないという連が増えてきて、「伊那節・勘太郎不要論」がくすぶるようになった。そこで2015年の第43回の時から名称・内容の見直しが始められ(つまり【その232】で取り上げた塩崎一族のうちわデザインの時である)、2年後、「第60回」(= 勘太郎まつり 15回 + 伊那まつり 45回)への軌道修正として結論づけられたわけ。

このあたりの事情、「探訪 伊那の勘太郎」は次のように述べている(抜粋:注記省略)。

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どうもこの時[引用註:石碑建立時]、勘太郎は「伊那市のものになった」ようである。全国のものではなく「伊那市のもの」に。しかし、そのことに、そしてその意味に気づいたものは誰もいなかった。
なぜなら、昭和39年当時、伊那の勘太郎は日本全国誰でも知っている有名人だったから…。
以来、伊那市は勘太郎を「全国区」のつもりであつかってきた。そうやって「勘太郎まつり」「伊那まつり」と勘太郎月夜唄を半世紀以上踊りつづけてきた。
その由来も、その経過も、その正体も今や多くの人が知らずに、ただひたすらに年に一回の「伊那まつり」で踊り続けてきているのである。
こうして勘太郎はタイムカプセルのように伊那市という限定された地域において「全国区」であり続けた。しかし、当然その全国区は大きな勘違いだった。
なぜなら本当の全国においては生き証人たちの減少により勘太郎の存在は確実に薄れ、全国区ではない世代が着実に増えてきたからである。
半世紀近く続けてきたことはやはり「伝統」というのであろうか。今、伊那まつりを本当に実行する皆さんにとって勘太郎の処遇は大きな悩みの種である。
なぜなら、もはや勘太郎月夜唄を自ら進んで楽しんで踊る若者は存在しないから。
勘太郎はどこから来て、どうして伊那にいるのか。なぜ勘太郎月夜唄なのか。なぜ伊那まつりで踊られるのか。歌われるのか。多くの市民がわからないでいる。
しかし、平成29年(2017)は伊那まつりが第45回を迎え、勘太郎まつりから通算すると第60回の記念開催となったため、実行委員会では「伊那の勘太郎」にスポットを当てようといくつかの提案がなされた。それにより勘太郎が映画の主人公だということを改めて知った人は多かったのではないだろうか。
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透徹した考察が光る。

なぜ「昭和39年当時」と示してあるのか、1964年にご当地で何があったのか(前の東京五輪の年だけど)、それはわかりませんが。単なる記載ミスかもしれない。

「YOSAKOI」や「阿波踊り」が全国化し進化し続けている(その是非や功罪もあるとは思うけれど)のとは対照的な途を辿っているようです、実際には。「変わってきている」ようで「変えられない」根源は、60年余り前の偶像化にあったように思われる。

おまけです。
長野県内では毎年8月第1週末に夏祭りを行うところがとても多い。北信の長野市の「長野びんずる」(1971年~)とか、中信の松本市の「松本ぼんぼん」(1975年~)とか、そして南信のご当地の「伊那まつり」(勘太郎まつり 1958年~:伊那まつり 1973年~)とか。その前週、つまり7月最終週末には東信の上田市の「上田わっしょい」(1972年~)もある。いずれも市民の「踊り」を中心として組織化された比較的新しいお祭りです。投資や費用の負担の軽いことから、このころこうした踊り祭りを全国各地の自治体が競って取り入れたんですな。

で、2017年を例に取ってみるとだ。

2017.07.29(土)
第46回上田わっしょい(降雨により途中中止)

2017.08.05(土)
第47回長野びんずる
第43回夏まつり松本ぼんぼん

2017.08.05(土)~06(日)
第60回伊那まつり

ねー?面白いでしょ。伊那まつりは従来のカウントでいけば「第45回」だったわけですよ。

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アレかねえ、競合する近隣の祭りより長い「歴史」が欲しかった、みたいなことかねえ。
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とツルが書いたのもあながち的外れではなかったみたいです(笑)。
人口では長野市の約38万人、松本市の約24万人、上田市の約16万人に対し、約7万人と大きく差のついている伊那市が、歴史と伝統を誇示したくなったということだろうか。

今年、令和最初のこれらの祭りは2019.07.27(土)、08.03(土)~04(日)に予定されている。それはまあいいとして、その次は2020.07.25(土)、08.01(土)~02(日)に開かれることになる。しかしその時は東京オリンピック(07.24(金)~08.09(日))の真っ最中でもある。どう対処するんでしょうねえ。

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