文化・芸術

2012年2月25日 (土)

菅原伝授手習鑑につき手習い

> 時代が下って、江戸期に作られた「菅原伝授手習鑑」になると、すっかり「道真=(悲劇の)善玉、時平=悪玉」として描かれ、このイメージが固定化する。
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この演目、どうして題名に「手習」と入っているんだろうかとか、平安時代が舞台の「王朝物」のはずなのになぜ寺子屋が出てくるんだろうとか、前から不思議に思っていた。

仮名手本忠臣蔵ならば、仮名文字のお手本すなわち「いろは歌」の四十七文字に赤穂浪士の数がかけてある。
加えて、いろは歌を1行7文字ずつ書いて行末の文字を拾っていき、いわゆる「沓冠」の「沓」を取れば「咎なくて死す」となって、無実の罪で死んだ(とされた)忠義の士の話と不思議にも符合することは当時よく知られていたらしい。(地下鉄サリン事件〜麻原彰晃逮捕の1995年、√5の覚え方「富士山麓オウム鳴く」との偶然の符合に驚いたのに似てるかも)

菅原道真 vs 藤原時平のいわば公家の政争に、松王丸・梅王丸・桜丸の三つ子の舎人一家(つまり平民)の悲劇が絡むこの話、異例の大当たりを取ったらしい。初演は;
 1746年9月 浄瑠璃 大坂
 1746年10月 歌舞伎 京
 1747年3月 浄瑠璃 江戸
 1747年6月 歌舞伎 江戸

すごいねー、浄瑠璃と歌舞伎がほぼ同時で、しかも半年のうちに江戸に下ってきている。この時代にこのスピード、よほど大評判だったのだろう。江戸の歌舞伎は8ヵ月のロングランだった由。

さらに驚くのは、このころ矢継ぎ早に人気作品が生まれていること。義太夫物の三大傑作とされ今でも上演回数の極めて多い「菅原伝授」「千本桜」「忠臣蔵」が3年連続で初演を飾っている。

義経千本桜
 1747年12月 浄瑠璃 大坂
 1748年6月 歌舞伎 江戸

仮名手本忠臣蔵
 1748年9月 浄瑠璃 大坂
 1749年1月 歌舞伎 大坂
 1749年3月 歌舞伎 江戸

こんなに立て続けとは思わなかった。しかもこの三作、作者がいずれも二代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳(=並木宗輔)のチームだってところがまた凄い(菅原伝授は初代出雲も)。時代の寵児、稀代のヒットメーカー。当時の演劇ファンはさぞや至福の時を過ごしたことだろう。

時代的には、元禄期にライバル関係にあった、井原西鶴(1642年?〜1693年)、近松門左衛門(1653年〜1725年:初代出雲の師匠でもある)の没後数十年。
文化文政期の四代目鶴屋南北(1755年〜1829年)による歌舞伎「東海道四谷怪談」(忠臣蔵の外伝でもある)が1825年に初演されるまでにはまだだいぶ間があるといった時代感。
ちなみに、江戸の歌舞伎作者だった南北を除いてはみな上方の浄瑠璃作者だから、やっぱり浄瑠璃は上方文化だったんだな。

普通、能や狂言、人形浄瑠璃の演目が先にあって、その後歌舞伎がそれを取り入れるというパターンが多いと理解していたけど、どうやらそれは正確ではなかった。
歌舞伎はもともと能舞台で演じられ始めたものだから(つまり、当初は花道もなく、観客席には基本的に屋根のない野外上演だったはず)、室町期に成立した能や狂言から演目を借りてきたり、背景に能舞台同様の老松を描くものがあったりするのは確かで、これがいわゆる「松羽目物」。
一方、人形浄瑠璃すなわち文楽から採られた演目は「丸本物」「義太夫狂言」などと呼ばれ、よりリアルタイム感が強い様子。作家が浄瑠璃脚本を書くのとほぼ同時に歌舞伎化まで進められるシステムが出来上がっていたんだろう。
「丸本」とは人形浄瑠璃のテキストを省略せず丸ごと書いた本のこと。「義太夫」は義太夫節のことでつまりは伴奏音楽だけれども、このあたりがやれ浄瑠璃だ義太夫だ常磐津だ清元だとまたややこしそうなので今回は飛ばしてと。

閑話休題。浄瑠璃は通し上演が多い(らしい)が、歌舞伎は長い脚本の一部を抜き出して舞台にかける方が一般的だから、本作も三段目から「車引」、同じく三段目から「賀の祝」、四段目から「寺子屋」あたりがよく演じられている。
「車引」の舞台となるのは吉田神社(京都大学の裏山の!)。登場人物の性格づけが最も単純明快で、三つ子が松王丸=実事/じつごと、梅王丸=荒事、桜丸=和事と描き分けられているとか、悪玉の藤原時平が強大な権力悪を表す「公家悪」として登場するとかの演出は、観客に大いにアピールしたはず。絶対三つ子には見えないし、「公家荒れ」と呼ばれる藍隈を引いた時平の姿なんてほとんどギャグにしか・・・なのだけど。

公家荒れの藤原時平

ちなみにただの兄弟でなく三つ子の設定としたのは、当時大坂で三つ子が生まれて評判となったという史実を引いている。
名前を松竹梅ではなく松梅桜にしたのは、「賀の祝」の場で、兄弟喧嘩のはずみに菅丞相愛培の桜の木を折ってしまったことから桜丸が切腹することの伏線になっているが、そもそも菅公の好んだ木ならばなぜ梅にしなかったのだろう。

それから、「手習鑑」と呼ばれる所以だが、あまり上演されない初段の中に「筆法伝授」の場というのがあって、能筆家の道真にその奥義を誰かに伝承するよう勅命が下るところから来ている。考えてみればここもちょっと妙な話・・・。
これを伝授される武部源蔵(ここに「竹」が寓意されている)なる人物が寺子屋を営んでいることが後の「寺子屋」の場の新たな悲劇につながっていくわけだけれども、それにしても「菅家筆法」はこのストーリーではあくまで傍流のような気がする。この件りを抜いても成立しそうに思えるのだが。

この歌舞伎が大ヒットしたについては、なんと、江戸市中の寺子屋に対して「割引券キャンペーン」みたいなことをやり、これが当たったところもあるらしい。
当時、寺子屋では学問の神として天神様を祀る習俗があり、平安時代のこの演目に寺子屋が登場するのもそのあたりの連想が働いてのことらしい。時代考証なんて考え方ははなからなかったのかも(笑)

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