文化Field:神祇

2014年10月27日 (月)

そして想いは再び屋島へ

(承前)

扇の的のエピソードにはやや長めの前置きがありまして。

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今日は日暮れぬ、勝負を決すべからずとて引き退く処に、ここに沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘汀へ向かひて漕ぎ寄せさせ、渚より七八段ばかりにもなりしかば舟を横様に成す。あれはいかにと見るほどに、舟の内より年の齢十八九ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが、皆紅の扇の日出だいたるを舟の脊櫂[せがひ]に挟み立て陸へ向かつてぞ招きける。
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スゴいですねー、敵方の軍船に妙齢の美女が正装して乗り込んで手招きしてんですよ。違う意味でこれも戦闘服smile。源氏の大将殿が近衆に尋ねます。

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判官、後藤兵衛実基を召して「あれはいかに」と宣へば「射よとにこそ候ふめれ。但し大将軍の矢面に進んで傾城を御覧ぜられん処を手練れに狙うて射落せとの謀と存じ候へ。さりながらも扇をば射させらるべうもや候ふらん」と申しければ、判官「御方[みかた]に射つべき仁は誰かある」と宣へば「上手共多う候ふ中に下野国の住人那須太郎資高が子に与一宗高こそ小兵では候へども手は利いて候ふ」と申す。判官「証拠いかに」と宣へば「さん候ふ。翔鳥などを争うて三つに二つは必ず射落し候ふ」と申しければ、判官「さらば与一召せ」とて召されけり。
与一その比は未だ二十ばかりの男なり。褐[かち]に赤地の錦を以て衽[おほくみ]端袖彩へたる[いろへたる]直垂に萌黄威の鎧着て足白の太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ薄切斑に鷹の羽割り合はせて矧いだりけるぬた目の鏑をぞ差し添へたる。滋籐(しげとう)の弓脇に挟み甲をば脱ぎ高紐に懸け判官の御前に畏る。
判官「いかに宗高あの扇の真中射て敵に見物せさせよかし」と宣へば、与一「仕つとも存じ候はず。これを射損ずるほどならば長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし。一定仕らうずる仁に仰せ付けらるべうもや候ふらん」と申しければ、判官大きに怒つて「今度鎌倉を立つて西国へ赴かんずる者共は皆義経が命を背くべからず。それに少しも子細を存ぜん殿原はこれより疾う疾う鎌倉へ帰らるべし」とぞ宣ひける。与一「重ねて辞せば悪しかりなん」とや思ひけん、「さ候はば外れんをば知り候ふまじ御諚で候へば仕つてこそ見候はめ」とて御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しきに小房の鞦[しりがい]懸け丸海鞘[まろぼや]摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し手綱掻い繰つて汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵共、与一が後ろを遥かに見送りて「一定この若者仕つつべう存じ候ふ」と申しければ、判官世にも頼もしげにぞ見給ひける。
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この年若き射手は、一旦要請を断って義経の怒りを買っているんですね。その分プレッシャーに耐えて見事面目を施すという伏線になっていて、効果もばっちりです。軍記物独特の丹念な装束の描写もこれまた重厚華麗。琵琶法師の語りどころ、聴かせどころだったんだろう。

この後、射抜かれた日輪の扇の段はこんな挿話で締めくくられる。

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あまり感に堪へずと思しくて平家の方より年の齢五十ばかりなる男の黒革威の鎧着たるが、白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひ締めたり。伊勢三郎義盛、与一が後ろに歩ませ寄せて「御諚であるぞ、これをもまた仕れ」と云ひければ、与一今度は中差取つて番ひよつ引いて舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す。「ああ射たり」と云ふ人もあり、嫌々「情なし」と云ふ者も多かりけり。
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初めに射たのは鏑矢で、殺傷能力に乏しい鳴り物の合図矢。今度は箙の中に差してあった、鋭い鏃のついた戦闘用の矢。
典雅に見えても、そこはやっぱり死を賭した戦場だったわけです。

2014年10月26日 (日)

屋島から日光・宇都宮・那須を念じてみた

(承前)

【その116】の八幡市観光協会からとんだ枝葉が繁ってしまったので、ここは一つ讃岐国屋島にも花を持たせてやらずばなるまい。

ご当地を舞台とした平家物語「扇の的」のクライマックスは次のとおり。

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矢比[ごろ]少し遠かりければ海の面一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇のあはひは七段ばかりもあるらんとぞ見えし。比[ころ]は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈しくて磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば、扇も串に定まらず閃いたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸[くが]には源氏、轡[くつばみ]を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。
与一目を塞いで「南無八幡大菩薩、別しては我国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ。射損ずるほどならば弓切り折り自害して人に二度面を向くべからず。今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と心の内に祈念して目を見開いたれば、風少し吹き弱つて扇も射よげにぞなりにけれ。与一鏑を取つて番ひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして過たず扇の要際一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家、舷[ふなばた]を叩いて感じたり。陸には源氏、箙[えびら]を叩いて響めき[どよめき]けり。
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あー、描写が華やかにカッコいいですねえ、さすがに。絵姿の美しさに加えて、様々な「音」までが聞こえてくる。ツルは日の丸の真ん中を射抜いたように思ってたんですが、扇の要の少し上に当てたんですね。
これ、誓約/宇気比/ウケヒみたいなもんではないか。若き日の藤原道長が、「わが家から帝や后が立たれるものならばこの矢よ当たれ」「自分が摂政・関白になろうものならばこの矢よ当たれ」と呼ばわって的のど真ん中を射抜き、ライバルを顔色無からしめたという大鏡の「南院の競射」の話によく似た感じ(cf. 2012.03.16「八王子 − 五男神にこだわってみた」)。那須与一宗高(宗隆とも)は実在性を否定されているようだけど、飛び切りカッコよく創作されているのだろう。

与一が念じた「日光権現」とは、修験道の霊山たる日光三山におはします神々、すなわち男体山(=二荒山)の新宮権現、女峰山の滝尾権現、太郎山の本宮権現の総称。やれやれ、おとといは常陸と下総に詣でたと思いきや、今度は下野ですかい。
権現というからには本地垂迹による神仏混淆なわけで;

男体山
権現:大己貴命/おおなむち 則ち大国主命(父)
本地仏:千手観音菩薩

女峰山
権現:田心姫命/たごりひめ(母)
本地仏:阿弥陀如来

太郎山
権現:味耜高彦根命/あじすきたかひこね(子)
本地仏:馬頭観音菩薩

女峰山は栃木のイチゴの主力品種「女峰」の名前の由来となった山ですね。田心姫の名前にも見覚えがあると思ったら、宗像三女神の一柱、すなわちアマテラスとスサノオの宇気比から生まれた五男神&三女神の内ではないか(cf. 2012.03.18〜19「八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた」)。

日光二荒山神社

この日光権現が現在の栃木県日光市の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)ということらしい。「日光」って、「二荒」の音読みから来ているってご存じでした?(@_@)

調べてみると、同じ栃木県の宇都宮市街にある二荒山神社(ふたらやまじんじゃ)は別の神様だというのにもちょっとびっくり。

宇都宮二荒山神社

こちらは第10代崇神天皇の皇子、豊城入彦命/とよきいりひこのみことで、毛野国(=下野国&上野国)の開祖だそうな。この御社のまたの名「宇都宮大明神」こそ、誉れの射手の唱へたる「宇都宮」にてぞ候へ。
因みにどちらの二荒山神社も下野国一の宮を名乗って張り合ってますcoldsweats01

もう一つの那須湯泉大明神というのは、栃木県那須郡那須町にある那須温泉神社とされている。祭神は大己貴命と少彦名命/すくなひこな。少彦名はたいてい大己貴/大国主とペアになって登場する印象で、各地の温泉を祀った神社にもこの二柱を祭神とするところが大変多い。温泉見つけたのも国造りの御業の一つということでしょう。

那須温泉神社

能の演目になった「殺生石」もここにある。瘴気つまりは火山性ガスを発して鳥獣を仆す石ですね。ツルは何となく東北にあるのかと思ってたんだけど。

えーっと、何の話だったっけ。つまりは下野国出身の源氏方の武士が屋島の海で、故郷の山の神々に御加護あれかしと祈ったわけです。

(続く)

2014年10月24日 (金)

吉田神社から春日大社、そして坂東まで足を延ばしてみた

(承前)

徒然草のことが出たついでに、作者の兼好法師の出自である吉田神社のことも調べてみますと。

吉田神社

吉田神社は京都市左京区、京都大学裏手の吉田山にあり、吉田兼好(正式には卜部兼好)はここの神職の家系です(cf. 2009.12.16「京都花園妙心寺 筑紫太宰府観世音寺」)。
吉田山はたーくさんの神社がひしめき合っていてさながら神社のデパート状態なんですが、吉田神社の主祭神は;

建御賀豆智命/たけみかづちのみこと(武甕槌命/建御雷神)
伊波比主命/いわいぬしのみこと(=経津主命/ふつぬしのみこと)
天之子八根命/あまのこやねのみこと(天児屋根命)
比売神(ひめのかみ)

の四柱で、奈良の春日大社から勧請されている。

春日大社

武甕槌と経津主は出雲神話の「国譲り」で国津神を平定/制圧する神であり(cf. 2012.03.17「八王子 − 五男神にこだわってみた Part II」;ただし経津主は古事記には出てこない)、前者は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に、後者は千葉県香取市の香取神宮に祀られている。

鹿島神宮 香取神宮

この両宮は利根川を挟んで相対する位置関係にあって、直線距離でわずか13.4kmしか離れていません。昔から対偶的に捉えられており、どちらも延喜式に明神大として載る古社で、近代では官幣大社。鹿島神宮は常陸国の、香取神宮は下総国の、それぞれ一の宮です。

それだけではない。宮中の「四方拝」に揃って登場するんですね。これは元日早朝に天皇が四方諸神を遥拝する年頭の儀式で、この時に拝されるのは、現在;

神宮(伊勢神宮)
天神地祇(天津神・国津神の諸神)
神武天皇陵
先帝三代陵(明治天皇 伏見桃山陵・大正天皇 多摩陵・昭和天皇 武蔵野陵)
武蔵国一宮 氷川神社(*)
山城国一宮 賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)
石清水八幡宮
熱田神宮
常陸国一宮 鹿島神宮
下総国一宮 香取神宮

となっている。明神大も官幣大社も数ある中で、このセレクションは意外ですよねえ。特に関東の辺りが。

(*)武蔵国の一の宮には、東京都多摩市にある小野神社を当てる説もある。

スサノオを祀るさいたま市大宮区の氷川神社はちょっと別としても、祭神が皇統に直接係わっているわけでもない鹿島・香取の両宮が宮中行事に登場したり、そもそも坂東の神社が遠く離れた出雲神話の神々を祀っていたり、結構驚きの連続です。しかもそれが奈良の春日大社や京都の吉田神社のルーツになっている(逆じゃないよ)というのは一体どういうことなのか。

吉田神社は藤原一族の氏神、春日大社はその前身たる中臣氏(蘇我馬子暗殺に始まる大化の改新を主導した中臣鎌足が死の前日に藤原氏を賜っている)の氏神として創建された社で、この中臣氏の地盤が実は常総地方であったとされる。だから、いわば郷里の神さんを都まで勧請してきたわけ。(正確には、中臣氏が信奉していたのは鹿島神宮の武甕槌で、香取神宮の経津主は本来物部氏の祭神だったらしい。もっともこの物部氏は大和朝廷の物部氏とは異なる由。)

一方、その中臣連のさらに祖として古事記に出てくるのが天児屋根で、こちらは岩戸隠れの際に祝詞を読み、アマテラスの前に鏡を差し出して岩戸から誘い出した神様。
そして、比売神は前回書いたとおり一般的な女神の呼称ということになるけど、この場合は天児屋根の妻の天美津玉照比売命/あめのみつたまてるひめのみことという次第。

古代の常総地方は大和朝廷の蝦夷進攻の前線基地として要衝の地だったそうで、そんなことやら神武東征の話やら皇室と中臣氏/藤原氏との関係やら諸々考え合わせると、これらの神社の祭神の構成はいかにも象徴的だなあ。

時代が下ると武甕槌と経津主は軍神・武神としての性格を強め、武家にも崇拝されていった。今でも武道場でたいてい「鹿島大明神」「香取大明神」の対の掛軸を掲げているのも、その表れなんだそうです。

(続く)

2014年10月22日 (水)

仁和寺から八幡宮へ歩いてみた

徒然草の「仁和寺にある法師」と平家物語の「扇の的」は、とりわけ人口に膾炙してきたお話です。誰もが口にする「なます」と「あぶりもの」、ね。

とりわけ前者は懐かしいでしょ、中学の授業で。

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仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、あるとき思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。 極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、傍への人に会ひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
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優れていると思うのは最後の書きぶりです。くだくだしい説明を一切省いて「先達はあらまほし」でストンと断ち切っているんですね。ある意味とってもpedantic。この時代の都人にとって、石清水八幡の本社が山の上にあるということは周知の事実だったのだろうか。

仁和寺1
この法師が住んでいた仁和寺は、京都市の右京区御室にある真言宗御室派のお寺。皇族が門主となる「門跡寺院」の始まりとなった名刹です。遅咲きの桜の名所としても知られ、花見に行きそびれたらここへ行けというのは京都人の常識。これは「御室有明」という大輪の品種で、丈低く仕立てられ「花(鼻)は低いが人の好く」として「おかめ桜」と呼ばれる(こんなことはガイドブックにも載ってますが)。そして御室と言えばオムロン株式会社の発祥の地でもありまする(もっとも今はずっと南、下京区に本社があるけど)。
因みに吉田兼好が庵を編んだ双岡(ならびがおか)は御室のすぐそば。仁和寺のうつけ坊主のことは、口さがないご近所雀の噂話になっていたのかもしれない。

石清水八幡宮 流れ左三巴
一方、京都府八幡市(やわたし)の石清水八幡宮は日本三大八幡宮の一つに数えられ(他の二つは宇佐神宮、および筥崎宮または鶴岡八幡宮)、近代社格制度における官幣大社、どぉ〜〜ん。都の鬼門を護る叡山延暦寺に対し、南西の裏鬼門を固める配置だとされている、どどぉ〜〜ん。

で、ちょいと調べてみました、八幡宮のこと。

八幡神はとりわけ武士の尊崇を集めた神様で、「南無八幡大菩薩」とも崇められるとおり神仏混淆しながら発展し、八幡宮は宇佐神宮を総本社として全国に約44,000社もあるそうな。主祭神は普通;

誉田別命/ほんだわけのみこと
比売大神/ひめおおかみ
息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと

で、これらを総称して八幡神と呼ぶ。誉田別は第15代応神天皇、息長帯姫はその母、神功皇后のことです。何となく土着信仰の神様かと思ってたら、全然違ってたのね。一方で、実在したと考え得る最も古い辺りの天皇らしいから、アマテラスやスサノオといった神話界の神々とは多少色合いを異にするのかしらん。

曲者はもう一柱の「比売大神」。この名前、固有名詞じゃないんです。石清水八幡や宇佐神宮では、これは宗像三女神(cf. 2012.03.18〜19「八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた」)のこととされている。
筥崎宮だとこの祭神は「玉依姫命」で、この名前もまた普通名詞としてよく出くわす。この場合は海神の娘で鵜草葺不合命/うがやふきあえずのみことの妻、初代神武天皇の母なる玉依姫を指していて、アマテラスとスサノオの誓約/宇気比/うけひから生まれた宗像三女神とは明らかに違う。いずれにせよ神功皇后 − 応神天皇の母子信仰と「比売大神」がセットになる理由はいまいち不明。
鶴岡八幡だと「比売神/ひめがみ」で、これも詳しいことがわかりませんが、ここは石清水から勧請されたところだから宗像三女神なのかもしれない。
さらに全国的にはいろいろあって、卑弥呼とされている場合もあるのだとか。

宇佐神宮
歴史的に見れば、宇佐神宮(大分県宇佐市)は延喜式における明神大、豊前国一の宮の官幣大社で、奈良時代に弓削道鏡即位を称徳女帝の意に反して和気清麻呂が封じた神託事件で有名だし;

筥崎宮
同じく名神大で官幣大社の筥崎宮(福岡市東区箱崎)は筑前国一の宮(ただし筑前国では福岡市博多区住吉の住吉神社も一の宮とされる)、ここは鎌倉時代の元寇の際に奉納された醍醐天皇宸筆の「敵國降伏」の扁額でも知られる(亀山上皇の筆と勘違いしている人が多いけど)。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)は国幣中社で、どうやら三大八幡宮の一つと数えるのは近年のことのようです。しかしながら何と言ってもここは実朝暗殺の舞台。1219年、鎌倉幕府第三代将軍を襲ったのは甥の公暁で、僧侶として八幡宮の神宮寺の別当(つまり長官ね)を務めていた。
公暁が石段脇の大銀杏の陰で待ち伏せしていたという「隠れ銀杏」の伝承については、当時人が隠れられる大きさがあったはずがない、江戸時代になってからの作り話だという説はよく知られていると思うけど、いやいやこれは先代の木で、今のは2代目だとする意見もあるそうなeye。あれ、でも古絵図にもこの木は描かれていないとかいう話ではなかったっけ。

伝承の真偽の程は別として、樹齢800年とも1000年とも言われたこの古木(やっぱり100年200年ぐらいの木じゃ大人は隠れられないよね)、2010年3月10日未明、強風で根元から倒れたのはニュースにもなりました。この椿事のその後はどうなったのか。

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倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された。残る2つは境内に保存される。倒壊から約1ヶ月たち、再生への努力が実を結び、若芽(ひこばえ)が確認された。
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現在の姿はこうです。新しい歴史が始まってんだね。

鶴岡八幡宮 大銀杏

石清水八幡宮
こうした各地の八幡宮に比べても、石清水の格式はひけを取らない。延喜式には記載がないものの、官幣大社たるに加えて、八幡宮としては唯一、宮中の元旦の「四方拝」で遥拝されています。だけどねー、いささかガジェットに乏しくて、上掲の「仁和寺にある法師」の話ぐらいなんだよね。

仁和寺2
この話は徒然草の第五十二段だけど、次の第五十三段も、「これも仁和寺の法師」が宴会で酔っぱらって鼎をかぶって踊りまくった挙句の果てに頭から抜けなくなる話(「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん」)、その次の第五十四段も「御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて」から始まる、「かわゆいお稚児さんをハイキングに連れ出して大失態の巻」で、御室仁和寺のイカレ坊主ども、いえ知識階級の赤恥滑稽譚が続きます。
因みに、その次の第五十五段がこれまた有名な「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。」というくだり。

いかにも末法思想な「人生の諦念」ぽいのが多くて、あんまり好きにはなれないんですけれどもね。

(続く)

2013年10月14日 (月)

新田神社 破魔矢縁起(下)

(承前)

どうやら、新田大明神の伝承には常に「矢」がついて回る様子。義興最期の場所が矢口の渡しだし、神社の場所も矢口だし。
新田神社の裏手、いかにも古墳ぽい小さな岡に今も生えている「矢竹」は、決してこの神域を越えて生え出ることがないとか、雷が鳴るとピチピチと音を立てて割れたとかいう言い伝えです。

これまた神社のサイトによると、江戸時代半ばの宝暦年間(1751〜1764)には既に、門前の茶店(今はそんなものありませんよ、カフェはあるけど)で「義興の矢」という土産物が売られていたらしい。
これを、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊をつけ魔除けとして売り出すように勧めたのは、大江戸のアイデアマン、平賀源内(1728〜1780)。二本を買って一本を奉納し、一本を持ち帰って「矢守」にするという企画で、源内先生、なかなか手が込んでいる。

これ、新田家には、その祖先という平安中期の源頼光の代から「水破/すいは」・「兵破/ひょうは」という二筋の矢が家宝として伝わっていたという伝説を踏まえたものです(名前がかっちょええ)。
源頼光は土蜘蛛退治や大江山の酒呑童子退治の逸話で知られたお人。配下に渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(公時)らの「頼光四天王」がいる。綱には一条戻り橋で鬼の腕を切り落とした話もあって、謡曲「羅生門」はこの舞台を羅城門に変えて作られたもの。一条戻り橋と言えば陰陽師安倍清明ですが、清明はこの時も鬼の腕を封じている。実は清明の家は頼光の屋敷のお向かいだったそうで。
坂田金時は金太郎の長じた後の名前ですね(cf. 2013.01.06「金太郎出世譚」)。酒呑童子退治には「道長四天王」の一人、藤原保昌も出かけており、その妻が和泉式部、その連れ子が小式部内侍(cf. 2013.07.28「屈辱 → 雪辱の構図」)。ああガジェット満載時代。

枝葉繁り過ぎ。水破・兵破の矢の話がまた込み入っていて、「源平盛衰記」によると、頼光が夢の中で、楚の国の弓の名手、養由基/ようゆうきの娘、枡花女/しょうかじょから「雷上動/らいじょうどう」の弓とこの二筋の矢を授けられたとされている。水破は黒鷲の羽根の鏑矢、兵破は山鳥の羽根の鏑矢。
養由基はこの弓矢を文殊菩薩から授かり、しかしこれらを受け継ぐべき者を見出せず700歳で娘に託して死に、枡花女も己れの寿命が尽きようという時に頼光のことを知り、その夢枕に立って弓矢を与える。まー、稀代の重宝ですわな、そりゃあ。
しかし、史実としては義興は頼光(源満仲の長男)の直系ではなく、頼光の弟の頼信(満仲の三男)の13代目(数えました)の裔だし、しかもこの弓、頼光側の5代目の頼政が宮中の鵺/ぬえ退治に使っている(平家物語や謡曲「鵺」で知られたお話)。そんなお宝がいつの間にか義興側に移ったとは考えにくいですがね。

源内は福内鬼外/ふくうちきがいのペンネームで、義興謀殺と水破・兵破の矢の伝説を題材に、人形浄瑠璃「神霊矢口渡/しんれいやぐちのわたし」を書き上げます(1770年:明和7年初演)。上方中心の浄瑠璃には珍しい、江戸浄瑠璃と呼ばれるジャンルの代表格です。新田神社境内からお話が始まるんだよ。現在よく上演される四段目のあらすじは;

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渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯と傾城の臺/うてながやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峯に一目惚れしてしまいます。そのため、叶わぬ恋と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃しました。それを知った頓兵衛は後を追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を斬り捨て、後を追って行きます。瀕死のお舟は二人を逃がすために太鼓を叩いて追手を欺きます。追いすがる頓兵衛を、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。
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この演目は大ヒットし、歌舞伎にも移された。義峯(リアルには「義宗」)は義興の弟で、頓兵衛は義興を殺した渡し守。「太鼓を叩いて追手を欺く」というのは、太鼓を叩けば義峯一行が捕まったと思って追手が包囲網を解くからという意味で、歌舞伎ではこの場面は浄瑠璃の趣向で「人形振り」で演じられます。ちょっと「八百屋お七」に似ている。

「矢」つながりはそれだけじゃありません。父親の義貞が「矢口の渡し」の戦いで地蔵菩薩の名号を書いて射た「矢」が多摩川を越えて横浜鶴見の夜光の地に飛んで松の木に刺さり、それを「矢止めの松」と呼び、そこに「矢止め地蔵」を祀った。さらに、その時から夜光の地を「矢向」と書くようになった(JR南武線に「矢向駅」があります)。
因みに多摩川にあった「矢口の渡し」は1949年、多摩川大橋の完成とともに廃止されたけど、その名は東急多摩川線の「矢口渡駅」に今も残っています。武蔵新田の隣駅。

徳川将軍家が新田氏出自を唱えた(その上を辿れば清和源氏)こともあってか、新田神社参拝は庶民にも流行し、源内先生考案の「矢守」も破魔矢として広まっていったわけ(破魔矢の由来にはむろん別説もありますが)。

これがめでたい新田大明神 矢守のいわれでございます。

新田神社 破魔矢縁起(上)

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ツルの住んでるご近所、大田区矢口にある新田神社も(地元では?)「破魔矢」の発祥の地とされてるけど、これの起源を名乗る神社なんて他にいくらもありそう。
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弓矢が破邪の徴とされたのはずうっと昔からで、弓弦を弾いて鳴らし魔物を寄せつけないようにする「鳴弦/めいげん」は宮中で出産・誕生・病気・日食などの不吉事の際に盛んに行われたし(今でも誕生後のお七夜まで「読書鳴弦の儀」は行われているらしい)、源氏物語の夕顔帖でも、夕顔の女が六条御息所の生霊に取り殺される場面で源氏が随身に鳴弦を命ずる件りが出てくる。
鳴弦は、鏑矢/かぶらやを用いて実際に射る儀礼に発展する。鏃/やじりに中空の鏑をつけた鏑矢は、射ると笛のように鋭い音を発して飛んでいくところから(ツルも一度京都で聞いたことがあるけど、どこの寺社の行事だったか思い出せない)、鳴弦同様「音」に霊力を見出し、その音で邪気を祓う意味があったのだろう。
鏑矢はまた戦場でも戦闘開始の合図として射られた。物事の始まりのことを「嚆矢/こうし」というのはここから来ている(嚆矢=鏑矢)。

ええと、破魔矢の風習も、だからもっと古い時代からありそうに思ったんですけどね。でも、調べてみると、新田神社の伝承も相当箔があるんです。江戸初期の井伊直孝公と豪徳寺の招き猫の逸話にも劣らず。

この新田神社、今年鎮座655年を迎えられて、この10月5日には小雨の中、稚児行列も出てました。知名度は低いですが、創祀1358年、なんとあの金閣寺創建(1397)より古いんだぜえ。境内にはすっごく大きなケヤキのご神木があって、風格を添えています。幹の太さなんていったらもう。

新田神社

このケヤキ、社殿側から見るとまたすごいんですが、それは実際に来て見た時のお楽しみということで。
最寄りの駅は東急多摩川線の武蔵新田(むさしにった)駅、この駅名も神社に由来するものです。

御祭神は南北朝時代の武将、新田義興公(1331〜1358)。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇方すなわち南朝方の新田義貞の次男。新田神社サイトによる縁起はこうです(抜粋:字句・表現の不具合を少し直しています)。

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 武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されたが、武蔵・上野の豪族等に擁立されて再び東国に入られた。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが常に失敗した。そこで、国清は竹沢右京亮・江戸遠江守らに命じて卑怯な計略を巡らした。

 正平十三年(1358年)十月十日、江戸・竹沢らの用意した舟で矢口の渡しを渡ろうとされたところ、舟が川の中流に差し掛かると、江戸・竹沢らに言い含められていた渡し守は櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、予め穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げた。欺かれたと気付かれた時は既に遅く、舟は沈みかけ、鯨波の声とともに江戸・竹沢らの軍勢に矢を射かけられ、終始一貫その忠儀を尽くされた義興公と従士十三人は矢口の渡しで壮烈なる最期を遂げられた。

 その後、十月二十三日悪計加担の渡し守等は多摩川にて難船水死し、江戸遠江守は矢口にて義興公の怨霊に悩殺され狂死した。基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ち、竹沢・畠山も罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死んだ。この後も義興公の怨霊が「光り物」となって矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られた。
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このお話は軍記物の大作「太平記」にも出てきます(山岡荘八とか吉川英治とかじゃないよ、古い方だよ)。これによると、10月10日、「名月の宴を催す」と称して矢口の渡しに誘い出したことになっている。坂東武士ながら風雅ですな。そして義興殺しから半月も経たない10月23日、江戸遠江守高良は矢口の渡し近くで雷に打たれてしまい、その場の命は助かったものの7日にわたって溺れる様を繰り返した挙げ句に狂死する。さっすが、こういうところの書きっぷりは太平記ならではです。

菅原道真の天神信仰同様、非業の死を遂げた人物が荒ぶる神として祟りをなす「御霊/ごりょう信仰」の典型(cf. 2012.02.19「天満宮につきお勉強」)。火雷神というところも同じです。
境内には敵方の者が近づくと声を発するという「唸る狛犬」があったりする。近くには従臣を祀った十騎神社(十寄神社)/じっきじんじゃ/とよせじんじゃもあって、新田神社に願を掛ける時はまず十寄神社にお詣りしてからでないと聞いてもらえないというしきたりです。悪玉の渡し守の名に因む「頓兵衛地蔵」、別名「とろけ地蔵」なんてのまで現存します。義興公の怒りでお顔がとろけているというお地蔵さま。

とまあ、ガジェットがっつり満載。つい1年ほど前にも、頓兵衛地蔵の祠が傷んでいるので寄付を募るチラシが町なかに貼られてましたっけ。

(続く)

2012年3月19日 (月)

八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた Part II

(承前)

市杵島姫は弁才天(弁財天・弁天)と結びつき、やがて弁才天は本家の市杵島姫や宗像三神の人気を凌ぐようになる。多分、神仏褶合というより宗教の大衆化娯楽化という切り口で見るべきなんだろうけど。
起源とされるサラスヴァティはヒンドゥー教における川の流れの神格化であり、ひいては流れ出るもの全般すなわち言葉や知識、音楽や伎芸の神。古くは地母神的な万能神の性格をも持ち、戦勝神ともされていたとは知らんかった。確かに創造神ブラフマー(=梵天)の妻でもある。
仏教に入って弁才天となり、日本では「財」の字をあてて福徳神の性格を強め、七福神としても親しまれる。海上神の市杵島姫とは「水」で通じたのだろう(でもなぜ三女神のうち一柱だけが??)。

弁才天を奉じた寺社では、明治の神仏分離により(またこれだよ)、神社側=宗像三神 or 市杵島姫、寺院側=弁才天と分かたれたところが多い。宮島の厳島神社と大願寺/だいがんじ、琵琶湖に浮かぶ竹生島に市杵島姫を祀る都久夫須麻神社/つくぶすまじんじゃと宝厳寺/ほうごんじなど。このほか、湘南の江島神社では与願寺が廃寺となって弁財天は摂社で祀ることとし、吉野の天河大弁財天社だと祭神を市杵島姫にすげ替えただけで弁財天も祀り続けている。みんな苦労したんでしょうね。

ちなみに江戸末期初演の歌舞伎「白浪五人男」に登場する「弁天小僧菊之助」は、江ノ島弁天の別当、岩本院の稚児だったところからきた名前。このピカレスク芝居、正式外題「弁天娘女男白浪/べんてんむすめ めおのしらなみ」、通し狂言だと「青砥稿花紅彩画/あおとぞうし はなのにしきえ」こそ、ゴレンジャーなんかの戦隊ものの元祖ですよ。名乗りの渡り科白も受け継がれてるしsmile

いろいろ調べていたら、宗像大社のサイトにしゃらっと『当大社は全国の弁天様の総本宮とも云えます』とあったのは笑えた。次には『当大社は全国の宗像神社と厳島神社と弁天様と八王子神社の総本宮とも云えます』なんて言い出しかねないねぇ。宗像大社さん、だったらせめて弁財天の像とか社の一つも造って売り出しなよ、弁天様が気を悪くするよ(爆)。

神社のサイトはどこに限らず「片寄った」記述が多いもの(I'm not talking about「偏った」, okay?)。都合よくまとめちゃうのはまあ仕方ないとしても、正当化しようとするあまり自己肥大に陥っちゃった的失笑記述にも時折りぶつかる。調べごとがしにくいんですよねー(汗)。学究的立場で書きゃいいってもんでもないし、客観的事実の記載であってもあんまりやると神社本庁がきぃきぃ言いそうだけどね。
寺院のサイトはそんな印象でもないのになあ。

敢えて挑戦的に実例を挙げると、天河大弁財天社(天河神社)。弁天様なのになぜ内陸にあるんだろう、降水量激多の土地だし大峯山岳信仰とも関わってるのかしらとサイトを覗いてみると。ほとんど神憑り、天河伝説殺人事件の浅見光彦もびっくり状態でした。
確かに歴史は古いようだけど、半ばこの神社自体がスピリチュアリズムもどき新興宗教と化してるらしい。当然銭勘定にはやかましい系で、バブルに踊った末1992年に破産宣告を受けていた(ちなみに映画公開は1991年、もう20年経つのか)。足下の火は消したようだけど、2008年には「時勢の悪化を憂慮し」「本殿改築20年を記念して」、秘仏日輪弁才天を60年1度御開帳の年期を曲げて公開し、奥山はるばる来てみれば事前告知もなしにいきなり拝観料3000円(以上)を申し受けたという曰くつき。奈良京都の観光寺院も真っ青です。挙げ句に昨秋の台風被害の改修費用捻出のためにまた御開帳すりゃいいんじゃないの、と揶揄される始末。過疎の山村で声を上げる人もいないんでしょうか。
映画公開当時、CMで繰り返し流れた特徴的な形の「五十鈴」も販売してるんだけど、ネット上ではお値段不明なのもありがち・・・想像するとどきどきしちゃう。

天河大弁財天社の有難き五十鈴

おっと、愚blogはトンデモ事物紹介サイトじゃなかったんだ。どうでもいい話はこれぐらいにしといてと。

他の二柱の姫神たちには取り立てて逸話もなさそうなんだけど、多紀理毘売/田心姫が大国主命の妻になっていることが目を惹いた。えーと、それってどういうことなんかな。スサノオの子孫と、スサノオの物実から生まれた娘とが結婚した。大国主は七福神の大黒に変化し、その嫁さんは同僚ともいうべき弁財天の姉妹。・・・でもそれだけじゃないだろう。
もともと大国主は配偶者の異常に多い神で、全国の神様と「きょうだい」になっちゃいそう(笑)。そこがこの神を(国津神の)複数神格の融合体であると見なす根拠の一つともなっている。海人族宗像氏と製鉄族出雲氏との融合(をヤマト朝廷から描いたもの)を意味するんだろうか。ちなみに宗像族は出雲族の神裔ともされている由。

最後に、宗像大社といえば忘れちゃならないもう一ネタ、「海の正倉院」のこと。
沖津宮の聖域として上陸が厳しく制限されてきたという特異な歴史を持つ沖ノ島は古墳・遺跡の宝庫でもあり、戦後3次の発掘調査が入って、祭祀遺物約8万点、縄文・弥生の遺物約2万点という、まさに夥しいお宝が掘り出された。大陸との交流を物語る貴重な史料というわけです。周囲4kmということは歩いたとして1時間、そんな小島でこのザクザクぶりはパネえよやっぱ。祭祀遺物については現在全てが国宝に一括指定されていて(+_+)、点数ではおそらく日本で一番たくさん国宝を持ってる神社仏閣でしょう。もう、「バルクで国宝!」ですがな。
(辺津宮の)神宝館に納められていて、ツルも学生の頃わざわざ見に行ったことがある。真冬の頃で、ただひたすら館内が寒かったことしか覚えてませんがsweat01sweat01

宗像大社は今や世界文化遺産の暫定リストにも登録されている。なんとエジプト学の売れっ子センセイ、吉村作治早大教授の肝煎りだそうで。
これはいけるんじゃないかなあ、ぶっちゃけ、見所のまるで遺ってない「日本一大がっかり世界遺産」の石見銀山なんかより。まあそのためには沖ノ島が逆にネックになるのかも、だけど。

2012年3月18日 (日)

八王子 − 三女神・宗像大社・厳島神社に近づいてみた

(承前)

> アマテラスとスサノオの誓約の時に生まれた三柱の女神は「宗像三女神」として知られ、福岡県の玄海灘寄り、宗像大社に祀られている。
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宗像大社って、ややマイナーな印象だけど、平安期の延喜式神名帳/えんぎしき じんみょうちょうでは「並名神大/ならびみょうじんだい」に列せられた、由緒ありかつユニークな古社。さらに遡って、大化の改新(最近では史実性が疑われているようだが)で神領を賜ったというから平伏ものです。

宇気比/誓約により生まれた八王子のうち三女神とは、古事記によれば;

 多紀理毘売命/たきりびめ(別名 奥津島比売命)
 市寸島比売命/いちきしまひめ(別名 狭依毘売命/さよりびめ)
 多岐都比売命/たきつひめ

といい、胸方/胸肩の民の信ずる神としてそれぞれ沖津宮、中津宮、辺津宮/へつみやに祀るとされている。宗像大社とはこの三つの宮の総称なんです、正確には。

日本書紀(本文)によれば;

 沖津宮:田心姫/たごりひめ
 中津宮:湍津姫/たぎつひめ
 辺津宮:市杵嶋姫/いちきしまひめ

となり、五男神同様、生まれた順番もちょっと違ってますね。「たごり」は「たぎり」の転訛したもの。注記の「一書曰/あるふみにいわく」の中には、古事記と異なり田霧姫≠沖津嶋姫=市杵嶋姫とするパターンも出てくる。

で、実際の宗像大社ではどうなのか。現在;

 沖津宮:田心姫神
 中津宮:湍津姫神
 辺津宮:市杵島姫神

となっていて、日本書紀本文と同じ。
同社のサイトには、『日本最古の歴史書とされる「日本書紀」』のことしか出てきません。まあ、天皇の勅による正史という意味では確かにそうだろうけど(苦笑)。

宗像大社の沖津宮のある沖ノ島(隠岐でも壱岐でもないよ)は玄海灘の海上約50km、本土と対馬のほぼ中間に浮かぶ面積1平方km足らず、周囲4kmの無人島(神官は常駐とか)。島そのものが御神体とされて、一般人の上陸は原則禁止。

精進潔斎して見よ、沖津宮

例外は毎年5月27日、日露戦争の日本海海戦(この近くで戦われたので、神官佐藤市五郎が木に昇って見ていたらしい)の日に行われる現地大祭の時のみで、事前申し込みによる200人限定(今も女人禁制)、前日から大島で中津宮に詣って、沖ノ島でも裸になって禊をしてからやっと上陸できるのだそうだ。荒天で漁船が港に緊急避難した時も、上陸に際して禊が求められるという徹底ぶり。

中津宮の大島(筑前大島)は本土から約6km、こちらはフェリーも通っている有人島。辺津宮は島ではなくて本土の田島の地におはします。
山岳信仰で、麓に遥拝殿、山頂に奥の院があるなんてのと同じ感じだろうか。ひょっとして、「沖」と「奥」って同系語なのかな。

ここでちょっとひっかかる。「市杵島」は明らかに「斎き島/いつきしま」つまり神聖な島のことだろう。であれば、この神様は本土の辺津宮ではなくて、海上の沖津宮か中津宮に鎮座すべきではないのか。古事記の記述の方がここはしっくりくる。
三女神の配置にも古来変遷はあったらしいし、三柱の中では市杵島姫がちょっと抜きん出ていたようだから、そのへんの集客力を狙って遷したりしたのかしらん?こんなとこが知りたいんですよ、ツルは。

そういえば湘南の江島神社にも似た名前があったような、と思ったらここも宗像三神だった!江の島の中に沖津宮、中津宮、辺津宮があるってのはややスケールダウン否めませんが、短気な江戸っ子にゃ丁度よい遊山先だったかも。ちなみに三宮の祭神パターンは宗像大社とは異なり古事記と同じ。

基本的に西の人間のツルにとっては、大きな神社に行くとだいたい「市杵嶋姫」の額を懸けた摂社末社がある感じで、これってどんな由来だろうと思っていた。
この名で思い出されるのは安芸の宮島の厳島神社。これまた宗像三女神を祭神としていて、宗像大社とはいわば姉妹関係か。ツルは今までなんとなく、厳島の神だから市杵島姫だ、これが宗像大社にも祀られたんだぐらいに思ってたけど、むしろ逆なんですね。

宗像三女神の信仰は、もともと海人族宗像氏の信奉する土着の地方神だったものが、大陸との接触が増えるにつれ国家神に転じていったものらしい。
古事記には、アマテラスが三女神に「宗像から朝鮮中国に至る海の道に下って皇統を助けよ」と命じる件りもあるし、この三社は地理的に一直線上に並んでいて、その線を延ばしていくと、対馬の北端をかすって釜山あたりに至る。微妙に怪しげな古代ミステリィロマンのかほり。

位置関係

各地の宗像神社や厳島神社はほとんどが畿内〜熊野灘〜瀬戸内海〜玄海灘に分布していて、これも大陸への航路に沿ったものだという(@_@)
となると、宗像辺りは船がちょうど日本本土を離れる最終地点だったと捉えることができる。一柱ずつ別の宮居として点在させたのもそんな旅路を手厚く守護する目的だったのではないか?事実、沖ノ島は航海上重要な目印でもあるとか。

宗像大社は海上安全のご利益をもって崇められ、秋季大祭では神輿に代えて満艦飾に大漁旗をはためかせた数百隻の漁船団が海上神幸を行うなんてのも、いかにも海人族の護り神らしいところです。
当然現代では陸上も含めた交通安全の神様となるわけで、日本で初めて自動車用のお守りを発売した(1963年(@_@))という、太宰府天満宮にも負けず劣らずなかなか算盤上手な神さんだ。福岡あたりじゃここの交通安全祈願のステッカーをつけた自動車、とっても多いですhappy01

(To be Continued...)

2012年3月17日 (土)

八王子 − 五男神にこだわってみた Part II

(承前)

アマテラスとスサノオの宇気比でもっと奇妙不可思議なのは、「なぜアマテラスまで子を生むのか」という点だと思う。

そもそもこのお話の前後の流れを古事記で追ってみると;
死した母伊邪那美命/イザナミを慕って泣き暮らし務めにも就かぬスサノオは、父伊邪那岐命/イザナギから高天原追放を命ぜられる。スサノオが母を訪ねて根之堅洲国(≒黄泉)に赴くに先立ち姉神に会いに行ったところ、天地騒鳴震動したのでアマテラスは弟が高天原を狙って攻めてきたものと疑い、武装して迎える。スサノオは邪心のないことを示すために宇気比を行うことになるわけ。
宇気比の後は、勝って増長したスサノオが高天原を荒らし回り、これを憂えたアマテラスが岩戸隠れし、・・・〔途中省略〕・・・スサノオは罪を科されて高天原を追放される、という流れ。
(ただし、日本書紀の「一書曰」ではこの前と後が逆転しているものがある)

こりゃまたツッコミどころ満点のお話です。
イザナギだって亡き妻に会いに根の国に行ってるのに息子にゃ認めないのかよ(この点日本書紀は、勘当じゃなくスサノオが伊弉諾神の許しを得て伊弉冉神を訪ねることとして解決)。あ、でも父は自分が「見るな」のTabooを破って大喧嘩した挙げ句に夫婦別れして帰ってくる不始末やらかしてるからこそ許さんって方が自然か。
そもそも、イザナミはスサノオの母親じゃないぞ(スサノオたち姉弟は根の国の穢れを祓うイザナギの禊で生まれている)、なんてところもありますが。

スサノオが身の証しを立てるためには、「我に黒心あるべからざればいたいけなる嬰子(or 手弱女?)生まれよ」トカナントカオッシャッテ、自分のアイテムから子を生んで「ほうれこのとおり、私は潔白だ」とでも言えば済むわけで、なにもこの場面でアマテラスが子を生む必要はないと思える、アイテム取り替えて話ややこしくしてまで。ここを深掘りしてみた。

結局、古事記にせよ日本書紀(本文)にせよ、物実の件を捨象すれば、共通しているのは;
①スサノオの行為により五男神が生まれ出ること
②スサノオの勝ちとされていること
③アマテラスが五男神の帰属を唱えて引き取ること
の3点ってことになりそう。

ポイントはそれぞれのキャラの行く末です(以下も基本的に古事記より)。
スサノオは出雲に降り立ち、八俣遠呂智/八岐大蛇退治なんかしたりする、その後はあんまり活躍しないけど。この六代目の末裔(日本書紀ではスサノオの子)が大穴牟遲/おおなむちすなわち大国主命で、着々と「国造り」を進めて(≒国津神化して)いく。
一方、五兄弟の長男オシホミミは地上界すなわち葦原中国/あしはらのなかつくにを治めるよう母(?)アマテラスに命じられるが、天浮橋から下界を覗き中津国は大変騒がしいとして立ち戻る(軟弱もの!!)。そこで、次男の天之菩卑能命/天穂日命/あめのほひが、次いで天若日子/天稚彦/あめのわかひこ(これは「神」ではないらしい)が遣わされるが、どちらも大国主に服してしまう。
その後、建御雷神/たけみかづち派遣に至ってやっと、大国主の子の事代主神/ことしろぬし・建御名方神/たけみなかたを服従させ、次いで大国主本人に宮殿(=出雲大社)の造営と引き換えに「国譲り」を承服させる。

ここらへん、いかにも侵略っぽいですなー。建御雷は十掬剣を逆さに突き立てて迫ったり、建御名方とは力競べをやったりしてる。これが神々による相撲の元祖。(人間の相撲(&柔道)の起源とされる野見宿禰/のみのすくねと当麻蹴速/當麻蹶速/たいまのけはやの取組のことは日本書紀のみに記載。)こういうのは「武力制圧」っていうでしょうよ、普通。
日本書紀の「一書曰/あるふみにいわく」の中には、この件りが(出雲大社造営等の)外交交渉というか懐柔政策のお話になっているものもあったけど。

すったもんだで中津国平定が完了したところでやっと下界に降り立つのが、オシホミミの子、邇邇芸命/瓊瓊杵尊/ににぎのみこと。アマテラスの孫に当たるとするから天孫降臨と呼ぶわけだ。子じゃなく孫なのも何か訳がありそう。(ここで三男坊あたりが登場してもいいのに)
で、アマテラスの血脈=日継の皇子の系譜は、
オシホミミ
→ ニニギ
→ 火遠理命/ほおりのみこと(日本書紀では彦火火出見尊/ひこほほでみのみこと)、すなわち山幸彦
→ 鵜草葺不合命/うがやふきあえずのみこと
→ 神倭伊波礼琵古命/かむやまといわれびこ、すなわち神武天皇
と受け継がれて人皇の時代に入っていく。

ふーーーん。要するに、天降りした弟神の子孫が国造りをして、姉神が弟との誓約で得たところの子孫がその国を譲られて(譲らせて)、それが今の治世に至るという筋書きだ。
ということは、国譲りや皇統を正当化するためには、(1)アマテラスの子の存在と(あ、当たり前か)、(2)スサノオの下放および国津神との混淆融合と、両方ともが必要だったのか。
ほんでもって、譲らせた国にアマテラスの裔がのこのこ出ていって治めていくためには、なるべくスサノオとの血のつながりを濃くしておくことがベターだろう。
「やあ!同じイザナギ/イザナミの子孫同士じゃないか」じゃあちょっと弱くて、「ボクのご先祖も実はスサノオ爺さんが生んでくれたんだぜ」が決めゼリフになるわけだ(ホンマでっか)。

これに比べれば、スサノオが三女神を得たり、宇気比に勝ったりというのは追加要素に過ぎないんじゃないかという気がしてきた。極論、スサノオが証しを立てられずそのまま放逐されたって大勢に変わりはないはず。

ちなみに宇気比/誓約に用いられた勾玉は、古事記で「八尺勾珠五百津美須麻流珠/やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま」、日本書紀で「八坂瓊之五百箇御統/やさかにのいおつみすまる」と書かれている。名前からして三種の神器の八尺瓊勾玉/やさかにのまがたまかと早合点しかけたが、それはアマテラスの岩戸隠れに際して諸神が作らせたものだから別物らしい。というより、八尺瓊勾玉とはもとは普通名詞であった由。
十拳剣/十握剣/十掬剣も同様で、この名は記紀神話にたびたび登場する。

まあそんなこんなはおいといて、ふふっ。

次回の主役は三女神の方。やっとここまで漕ぎ着けました・・・

(To be Continued...)

2012年3月16日 (金)

八王子 − 五男神にこだわってみた

> 各地の八王子神社でも祭神がすげ変えられ、「牛頭天王と頗梨采女との間に生まれた八人の御子」から「須佐之男と天照の誓約/うけひによって生まれた五男三女神」になったりしたのだ(@_@)。
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最近すっかり故事ヲタクのツルです。

この時に生まれた三柱の女神は「宗像三女神」として知られ、ツルの出身地福岡県は玄海灘寄りの、宗像大社に祀られているのだ。
そんなわけで、ここら辺をちいっとお勉強してみたんですが・・・どつぼにはまってとっぴんしゃん。

アマテラスとスサノオの姉弟の誓約というのは、古事記と日本書紀でちょっと内容が違っている。

古事記では、天照大御神は建速須佐之男命/須佐乃袁尊の十拳剣/とつかのつるぎを噛み砕いて三柱の女神を生み、スサノオも同様にしてアマテラスの勾玉から五柱の男神を生む。アマテラスは「自分の持っていた玉から生まれた男神の方が自分の子だ」と唱え、スサノオは「自分の持ち物から生まれたのが心優しき女神なのは自分に邪心がないからだ」と応じて、スサノオの勝ちとなる。

なんだか不思議な話ですねえ・・・

[A]まずは、アイテムを交換して生まれてくる子キャラが、親キャラではなく「アイテムの元々の持ち主キャラ」に帰属するという設定だけど(ゲーム感覚でいっちゃいかんですかね?)、この「物実/ものざね」の思想は必ず取り上げられるところだからちょっと措いといて。
[B](スサノオの)剣から生まれ出るのが女神で、(アマテラスの)玉から生まれるのが男神というのもちょっと不思議。普通はアイテムを逆に設定しそうなもんだよな。
[C]「八王子」でせっかく偶数なのに、男女比をわざわざ5:3に崩してあるのも不思議と言えば不思議なり。

一方の日本書紀では。
この書物は本文のほかに注記として多数の異説を列挙してあるのが特徴で、この時代の史書しかも国家の正史で複数記載を許容したものは世界に例がないらしい。革新的。当然、日本書紀を読むというのはこれも含めてっていうことで、現代の我々に格好の研究材料を提供してくれてるわけです(ああ、めんどくさい)。

で、その本文に曰く、天照大神が素戔鳴尊/素戔男尊の十握剣から三女神を、スサノオがアマテラスの勾玉から五男神を生み、スサノオが勝つあたりは古事記と同じに見える。
でも!これはあらかじめ「男子が生まれれば『赤心/きよきこころ』、女子が生まれれば『黒心/きたなきこころ』としよう」と約した上でのことなのです。うわー、臆面もない男尊女卑。
スサノオが勝つ理由が古事記とはまるで逆。しかも「物実」思考(志向?)はないことになる(ここは上記の不思議[A]への回答にもなりそうだ)。
ところがこのあとで事情がねじれ、アマテラスが物実を言上げして五男神を自分で養うこととする。

さらに、注記の「一書曰/あるふみにいわく」だとバリエーションが広がって、その(一)ではアイテム交換はせず、アマテラスは「自分の」剣(三振り)から三女神を、スサノオも「自分の」玉から五男神を生む。言い換えるとアイテムが初めからすり変わっているわけで、武装していたのはアマテラスなのだからこっちの方が理に適う気もする。
(二)では、アイテムは交換するが、アマテラスはスサノオの「玉」から三女神を、スサノオはアマテラスの「剣」から五男神を生むのが本文と異なる(ここは不思議[B]に呼応するな)。
(三)では(一)とほぼ同じだが、スサノオが生むのは「六男神」。女神の倍の数になるわけだ、てことは九王子でエンネアドか、ほほぉ。(これは不思議[C]の手っ取り早い解決になるな・・・)

もともと宇気比という占いは初めに条件を呈示して行われるものであり、また、複数で競う類いのものでもない。
たとえば、「大鏡」の「南院の競射」の件りで、藤原道長が政敵である甥伊周/これちかの邸で「道長が家より帝后立ち給ふべきものならばこの矢当たれ」「摂政関白すべきものならばこの矢当たれ」と言って弓を引いたところ二度とも見事に的の真中心を射抜き、伊周は(結果的に)すっかり気圧されてしまった、なんて話が一つのパターンか。
その意味で、古事記の宇気比はどうも後出しジャンケン的な奇妙さが残る。

妙なところはもう一つ。宇気比で生まれた五男神兄弟の長男を、古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命/まさかつあかつかちはやひ あめのおしほみみのみことと言い、この長い名前の前半部分は「正に勝った、私は勝った、日の昇る速さで勝った」といった意味。スサノオは「(私の剣で)女神が生まれたから私の勝ちだ」と言っておいて、勝ち名乗りともいうべき名前は男神の方につけているのだ。あ、そりゃしょうがないのかな、だって三女神の方の命名権はアマテラス側にあるだろうから。
ちなみにこの男神は、日本書紀では次男とされていて名前も天忍穂耳命とだけ。

(To be Continued...)

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