文化Field:詩歌/音楽

2019年6月27日 (木)

【誤植編の蛇足】校正まだまだ畏るべし

(承前)

cf.
2012.02.11「あ、今日は母親の命日だ。」

誤植や校正ミスの問題については、ツルもシゴトの上で似たような経験があって、全社員に宛てたメールの「インサイダー取引防止教育を実施します」という見出しを危うく「インサイダー取引教育を実施します」としそうになったことがある。すっごく微妙、でも株式担当者としては決してゆるがせにできないところネ(大汗)。

そもそもツルがこの問題に関心を持つようになったのは、昭和四十九年(1974年)、小学校6年だった時、母親が句集を出版することになって(九州の現代俳句の同人誌「自鳴鐘」の問程叢書第五輯だった)、父親もそれを手伝って校正をしていたから。だからその時、次の本も薦められて読んでいた。

「本と校正」
長谷川鑛平
中公新書
1965年刊

半世紀前、鉛の活字を組んでいた時代の本なのでさすがに内容が古いです。けれども、社会人になって株式業務だの情報開示業務だのを担当するようになって、正確でミスのない文書(印刷物を含め)を作成することが職務上の絶対条件となるに及んで、何度か読み直した。時代を超えて、知的刺激あふれる稀書にして名著です。
エピソードも満載で、『森鴎外はよほど腹に据えかねることがあったか、「鸚鵡石」で校正子のことをボロクソに書いている』とか『与謝野晶子は子福者であったが、ある時「お腹を痛めて産んだ我が子」を「お股を痛めて産んだ我が子」と誤植されて赤面を強いられなさった』とか『石原慎太郎は極めて悪筆で、どこの出版者にも専門の解読家がいた』なんてのを思い出す。

虹二重双生児のわれら誰から死ぬ 京子(昭和二十八年)
今は猟夫の夫に言葉を殺し蹤く 京子(昭和三十三年)
黒き凧見つけて天に歩み寄る 京子(昭和三十三年)
逝く春や子の粥一匙ずつ冷ます 京子(昭和三十九年)
藤昏るる砂場は酷使されしまま 京子(昭和四十三年)

父親は旧制中学だの旧制高校だの海軍だのの同窓会あれこれの幹事をやるのがえらく好きだったので、何百ページの分厚い会員名簿の編纂やら会報発行やら何やらにもあれこれ関わって「印刷物」を作ることに縁があり、よく「校正畏るべし」と言ってたっけ。一番覚えているのは、『会員名簿のゲラ校正を全頁終えてヤレヤレとほっと一息つき、さて印刷所に持っていこうとして何の気なしに一番最初の頁に目を落としたら、背表紙の文字が「会員名簿」ではなく「会名員簿」になっていることに気づいてゾッとした』という話。あまりに大き過ぎて誰の目もすり抜けていたというわけです。
ツルはちょうどその頃読んだエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」のことを思い出して、ああほんとにそんなことってあるんだと面白く感じた。

それから約十年の後、昭和六十年(1985年)に母親の第二句集(遺句集でもあった)を出した時には、ツルも多少手伝いました。

蛇展の玻璃に晩夏の指紋殖ゆ 京子(昭和四十九年)
秘密の樹持つ少年に冬夕焼 京子(昭和五十年)
鶴発ちて一糸まとわぬ天残る 京子(昭和五十三年)
氷砂糖すぐ噛み砕く少年期 京子(昭和五十四年)
遠き闇の蛍ひからす子の手紙 京子(昭和五十六年)

因みに、「逝く春や」の句(第十二回全国女流俳句大会で二席に入った句らしい。これが!?である)には1歳頃の、「冬夕焼」には中学生の、「氷砂糖」には高校生の、「遠き闇」には大学に進学した年のツルが閉じ込められている。友人と二人でに実家近くの神社の裏山から掘り採ってきた秘密の樹、ヤブニッケイ/Cinnamomum japonicum(最近は "yabunikkei" の種小名を使うらしい^^;)は、今でも実家の地上庭園@博多にある。洛東の疎水沿いの哲学の道は桜の名所として知られるけれど、それから二月もすると蛍が出ます。

で、その後、父親も同じ同人に入って俳句を始めちゃった。こっちは句集出すようなレベルにはとても達しませんでしたが(お父さんごめんなさい)。

風花やマリアの像の憂いおび 健一(平成七年)
水仙咲く隣の人は去りしまま 健一(平成十年)
老桜は散り初む鷺は悠然と 健一(平成十年)
あじさいの咲き初む色のなき如く 健一(平成十年)
明月を隠して薄き雲流る 健一(平成十年)

あ、雪月花ばかりになりにけり。

というわけで、今日は父親の丸20年目の祥月命日。もうそんなにも過ぎてしまったか。ツルも母親の享年は越えてしまったし。

2019年6月 2日 (日)

【もやもやの蛇足】Rock on the Road! お祭りソングに注いだ情熱:作詞家と振付師と・・・

(承前)

妻の阿木燿子も華やかに応じて曰く。

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清水みなと祭りとの『美縁、ビエン、bien』

作詞を担当させて頂きました阿木燿子です。私にとっても遺作になるかもしれないのですが、初めてメロディを聴きました時は、次回作には最高に華やかなものを、というイメージを持っていたので、主人には「お祭り!」という弾け感がもっとあった方がいいのでは、と申しただけで、別にメロディにクレームを付けたわけではありません。今までの四作もそうでしたが、今回も夫婦の危機スレスレのところで、新しい作品が仕上がりました。

清水みなと祭りに来させて頂いて、皆様が踊って下さる姿を拝見すると、本当に作詞家冥利に尽きるなと感じます。作詞家というのは作品を産みっぱなしで、レコーディングが済んだ後は、その曲がヒットするかしないか、運まかせなところがございます。人の耳にあまり触れることがないような場合は、残念な気持になります。でも清水ではどの作品も皆様に愛して頂き、大事に育てて頂いたという実感がございます。作詞家として、こんな素敵な仕事はないな、と常々感じさせて頂いております。

主人から、新曲のキィワードにフラメンコはどうだろうと言われた時、「それは良いかも」とすぐ思いました。私はフラメンコが大好きで、自分でも習っていたり、「フラメンコ曽根崎心中」というフラメンコと曽根崎心中を合体させた作品をプロデュースしたりしているので、フラメンコの持っている陽気さ、明日は明日、今日は今日、今宵一夜を踊り明かそう、といった心意気みたいなものが、清水みなと祭りに共通すると感じたからです。

今日は詞がお手元にないと思いますが、私が知っている数少ないスペイン語に「ビエン(bien)」という言葉があります。フラメンコ・ショーを観ていても、ダンサーや歌手に「ムィ・ビエン(muy・bien)と声をかけたりします。「とても良いよ、素敵だよ」という意味らしいのですが、私はその言葉の響きが好きで、いつも頭にありました。
去年の東日本大震災以来、「絆」ということが言われます。今、私達日本人に最も大切なものとして、いえ、世界にとっても、地球にとっても絆という言葉は大事なキィワードになりつつあります。でも、昨今あまりに使われすぎて、作詞家としては避けたいなと、いう思いがございました。そこで「縁(えん)」ならどうだろう、とひらめきました。それも美しい縁という意味で「美縁(びえん)」。スペイン語にも引っ掛けた造語ですが、美しい縁(えにし)を、今回の作品のテーマにしました。

人と同じく私も、清水みなと祭りに関係していらっしゃるすべての方々、そして踊って下さる大勢の市民の皆様と良い縁で結ばれていると信じております。縁という糸は目には見えませんが、そう感じれば必ず美縁となって世界を巡ってくれるものだと思います。
今回はとくに私達の自信作です。ぜひ聴いて頂きたいし、皆様が清水みなと祭りで踊って下さる日を、楽しみにしています。
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この時宇崎竜童は66歳、阿木燿子は67歳だったので、遺作とするにはまだちょっと早いと思いますがネ。
「絆」を使いたくなかったという心情はツルも共感します。

振付の佐藤浩希の言葉がまた力強い。

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民衆が主役になる踊り・フラメンコ

フラメンコ・アーティストの佐藤浩希です。偉大な二人のアーティストの熱い思いを聞いた後で、私が何を語ろうか、少々緊張しています。

皆さん、フラメンコってご覧になった事がありますか?薔薇を口にくわえて手を叩いてオーレというようなイメージだったり、女性が長いスカートを翻しながら、激しいステップを踏んで踊るというのがフラメンコなんですけれども、本来の姿はスペインのアンダルシア地方の盆踊りなんです。お祭りの時に一般の民衆が、普段の生活の中で、例えば誕生会があったり、友達と遊んでいてふと楽しく踊ったり歌ったりというのが、フラメンコ本来の姿なんです。私が修行して、足の技術を磨いて、ステージ上でお客様に見せる踊りとは違うフラメンコがスペインにはあります。私はそれが大好きで、そこにこそフラメンコの原点があると感じ、ずっとアンダルシアに通って民衆の人たちの踊りを見て来ました。
おじいちゃん、おばあちゃんが歌う歌で、孫や赤ちゃんがヨチヨチ歩きしながら踊ったり、又はその反対で子供達が歌って背骨が曲がって身体があまり動かないおばあちゃんが、お尻を振るだけで拍手喝采が起こる。そういった世代や言葉を超えたコミュニケーションツールとして、地域の中で愛されている。私は日本でフラメンコ・アーティストとして活動する中で、ステージ上でお客様に自分の踊りを披露するだけではなくて、スペインで行われているように、生活の中で民衆の方が主役になるようなフラメンコのあり方って無いのかな、という事をずっと模索して来たんです。

そういう活動の一環として静岡県の湖西市で「湖西市手をつなぐ育成会」という、障害のあるお子さんをお持ちになっている親御さんの会なんですが、ご縁がありまして子供達にフラメンコを教えて、一緒に舞台を作る活動を2004年からずっと続けており、3月にも湖西市民会館で舞台を行いました。そんな風に、私たちだけが主役じゃない。みんなが主役になれるような、フラメンコのあり方をずっと模索し続けています。

そうした中、宇崎さんから「清水みなと祭りでフラメンコをやってみないか」というお話しを頂いた時に、1万人もの踊り手の方々がフラメンコを踊る、これこそ自分がフラメンコに携わっていてやりたかった仕事だったなと、本当に嬉しくて嬉しくてその時身体が震えたのを今でも覚えています。
祭りというのは、世代を超えて老いも若きも一緒に楽しめる文化だと思うんです。こんなに素晴しい文化は無い。で、明日また元気に生きて行こうという力を得る場所でもある。そして踊っている人たちみんなが主役になれる。自分達が今生きているんだって事を、こんなに素晴しい事なんだって事を、実感出来る場が祭りだと思っています。フラメンコは正にその力を持っている民俗芸能なので、その力を借りて、今回私が携わらせて頂く事で、少しでもこの清水みなと祭りのお力になれたらなと、頑張ってまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
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はー。ツルは感嘆を惜しまない。

Wikipediaの宇崎竜童の項には、「これ以降毎年清水みなと祭りの時期には清水を訪れ、地元の住民らと交流を続けている。2007年放送の『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK)では、このエピソードをもとにして、笑福亭鶴瓶と宇崎が清水を訪れた。」とある。

ご当地ではこのお祭りの踊りの講習会、ほぼ年中行われてます(@_@)。そんな熱意こそが、アーティストを後押ししたんだろう。

2019年6月 1日 (土)

【もやもやの蛇足】Rock on the Road! お祭りソングに注いだ情熱:作曲家と・・・

(承前)

伊那まつりの「Dancing on the Road」を1997年に作った宇崎竜童は、実は各地で『新しいお祭りソング』を提供している。

これは伊那より前から始まっており、ちょっと調べただけでも;

1987年
静岡県清水市(現 静岡市清水区)
清水みなと祭り(1947年~)
「港かっぽれ~KAPPORE FUNK」

1988年
愛媛県宇和島市
和霊大祭・うわじま牛鬼まつり(1950年~ 宇和島商工祭り:1996年~ うわじま牛鬼まつり) ガイヤカーニバル(1988年~)
「GAIYA ON THE ROAD」

1988年(?)
愛媛県八幡浜市
八幡浜みなと夏まつり てやてやウェーブ(1988年~)
「TEYA TEYA I WANT YOU」

あたりが見つかる。他にもあるかもしれません。
宇和島と八幡浜で祭りの名称が2段に分かれているのは、若年層向けにアップテンポの踊りの場を用意したということのようです(しかし同じ愛媛県内で同時期に同様の動きがあったというのはどういうわけだろう?)。伊那と宇和島に「on the Road」が共通してる理由となると・・・もう怖すぎて書けません表情ひえ~。どこもいろいろ苦労してんのね。

ここで滅法面白かったのが、皮切りとなった「清水みなと祭り」のサイトに載っている、2012年の宇崎竜童のスピーチ。実は四半世紀にわたる経緯がありまして・・・。

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5月10日(木曜日)完成したばかりの清水文化会館マリナートにおいて、第65回清水みなと祭りの記念事業の一つである、新曲『かっぽれ・フラメンコ』の制作発表会が開催されました。

〔中略〕

港かっぽれ誕生から25年。清水の街との縁

今から25年前、当時の実行委員長をはじめ、実行委員会の方々が、清水みなと祭りのために曲を書いて欲しいといらっしゃいましたが、2度お断りをしました。それはご当地ソングのようなものを依頼しに来られたと思ったからでしたが、3度目にいらしたときに、清水みなと祭りという伝統的なお祭りの中で、年齢を超えて、若い人も子供も、大人もお年寄りも、みんなが踊れる踊りの曲を書いてもらいたい。それが清水の街を活性化するために助けになるんだという話を聞き、三度目の正直で、是非という事でお引き受けしました。

この時書いた「港かっぽれ」がきっかけで、色々な土地のお祭りのためのダンスミュージックをあちらこちらで書きましたが、どの土地も1曲頼んだら、もう後は僕の所へ来ないんです。なのに清水はそれから5年経ったらもう1曲欲しいと言って来ました。で、さらに5年経ったらまた欲しい。その時には、これはもう腐れ縁になるんだなと思ったんですが、4曲目を書いた時には、これはもう腐れ縁ではなくて、深いご縁でこの街の人たちと僕が繋がっているんだなと嬉しく思いました。
そして10年経って、去年「もう1曲書いて欲しい」と言われた時には、感動的でもありました。
この10年間やりたいと思ってたんです。だけど色々事情があったようで、この10年は新曲の依頼がありませんでした。なぜ来ないのかとしびれを切らしていました。でも昨年願いが叶ってオファーを頂きました。

1曲目の「港かっぽれ KAPPORE FUNK」は大阪の住吉神社から船で清水へ来た人が、この地にかっぽれを残して行ったという事が発端だったので、かっぽれをR&Bのファンクとぶつけて、老若男女全ての人が踊れる楽曲にしようという事でスタートしました。2曲目の「活惚レゲエ」は南の国の音楽のサウンドを清水へ持ち込もうとレゲエを使いました。次は北で、国内のねぶたの囃子を取り入れて「かっぽれ侫武夛」ができました。そして5年後は南へ向かい、沖縄の華やかなお祭りであるエイサーの囃子とかけ声をぶつけてみました[引用註:「かっぽれエイサー」]。

それから10年の間、次に来たらどうしようとずっと考えていましたが、なかなか依頼が来ないものですから、頭の中は世界中駆け巡っていましたが、去年話が来た時に、これはフラメンコしかないという事で、今日初めて曲名を申し上げますが「かっぽれ・フラメンコ」という曲を書きました。
フラメンコにしようと思った瞬間に、フラメンコと文楽の曾根崎心中とのコラボレーションの仕事を通じて、もう12年程のお付き合いをさせていただいている、フラメンコ・アーティストであり、振り付け師でありダンサーである佐藤浩希さんに振り付けをお願いする事にしました。今、佐藤さんはどんな振り付けにしようかと考えられている最中だと思います。

清水から日本中に、世界中に発信を!

これまで何年も清水みなと祭りの「港かっぽれ・総おどり」に参加させて頂いておりますけれども、今までの曲の振り付けは、なかなか前に進む事が無かったので、僕からの佐藤さんへの注文の一つとして、前へ進む、前へ動いて行く振り付けを組み込んで欲しいという事をお願いしてあります。また、フラメンコは変拍子がベースになっておりますが、ダンスミュージックですから、新しい盆踊りという認識をして頂いて、フラメンコのベースになっている変拍子は一部分で取り入れる形になっております。
それと今までの曲の冒頭には「かっぽれ、かっぽれ、よーいとな、よいよい」というかけ声が入っておりましたが、今回はそれをスパニッシュなサウンドの中で歌に乗せました。その後に「オーレ」ということばを入れました。

デモテープは完成しましたが、まだここで皆さんにお聞かせする事は出来ません。現在アレンジャーが編曲をしている最中で、今月中には完成する予定です。まだ皆さんに聴いて頂けないんですけれども、発表をこの新しく完成した清水文化会館マリナートで行える事を感謝しております。
建築中のマリナートを無理を言って施設を全て拝見しました。この立派な会館でテストランとして「かっぽれ港響曲」というタイトルで、20年前に行った「一万人の港響曲」をタイトにした形を、この舞台で行える事をとても嬉しく思います。その時は、ぜひ皆さんに参加して戴いて、満員の会場の中で、20年前にやった事と、これからやろうとしている事両方を、皆さんに聴いて見て頂いて、清水には伝統になりうる楽曲がこんなに沢山あるんだという事を知って頂きたいと思います。

僕は日本の中心は清水にあると認識しております。ここ清水から、日本中に、世界中に、このかっぽれの音を発信出来たら、受け止めてもらえたらと思っております。壮大な計画で100年後の事まで考えて、100年後極楽か地獄か解りませんが、そこから見下ろすか見上げるかした時に、清水で壮大なお祭りが続けられている姿を拝見したいと思って、今回新しい曲を作らせて頂きました。
新しい曲を作った時に、同じ屋根の下に住んでおります作詞家の阿木燿子に最初の聴衆として聴いてもらいましたが、その時のことばが「あなた、25年清水みなと祭りに関わらせていただいて、楽曲を提供させて頂いて、この5曲目があなたが清水へ提供する遺作になるのかもしれないんですよ。遺作になるのかもしれないのに、これで良いんですか」という非常に厳しい批評がありまして、僕はそれを聞いて考え込んで、そうか、もしかしたら遺作になるのかと思い、それからもう一度イントロから考え直して作り直して聴いてもらったら、「これなら詩を乗せても良いかな」というお返事を妻から頂きまして、何とか楽曲が仕上がりました。
ですから、僕としては入魂の一作。そしてこれは何十年も皆さんが引き継いで踊って下さる楽曲。遺作にならないと良いんですけれども、遺作になってもこれでも良いだろうという気持ちで作りましたので、ぜひ7月15日にマリナートで行われる発表会の時には、皆さんお誘い合わせの上、いらして頂きたいと思います。
よろしくお願いいたします。
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聴衆の心に強く訴えかける言葉の花束。今や、清水みなとの名物は次郎長親分以外にもいろいろあるんですよ(笑)。でもご当地としてはさっすがに「かっぽれYOSAKOI」だけは頑として受け入れませんっ爆弾

「どの土地も1曲頼んだら、もう後は僕の所へ来ないんです」にはもう大笑いしましたが。

(続く)

2019年3月 3日 (日)

朧月夜

高野辰之&岡野貞一のコンビによる作品、3連発でまいります。

叙景歌の優品、「朧月夜」は1914年(大正3年)の『尋常小学唱歌 第六学年用』が初出である。

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菜の花畠に 入り日薄れ
見渡す山の端 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小路を 辿る人も
蛙の鳴く音も 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜
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現代だとねえ、春先にゃ黄砂やらPMナントカやらの飛来でやんやん騒いだりしておるわけですが、色を失いゆく黄昏の世界でなおも鮮やかにこんな和風パステルの情景を描き出した言葉の力にはやっぱり強いものがあると思う。

ふと、奥野和夫が「日本秋祭 in 香港」ロゴマークを制作した際、「一般的に秋というと茶色を連想されることが多いかと思いますが、日本の秋は古来より色鮮やかなイメージがあります」と詞書に書いたことが対照的に思い出されたりもする(cf. 2018.11.18「校章エキスパートの来歴:4」)。

日本秋祭 in 香港

ひらがなで書いてみるとはっきりするけれど、「うさぎおいし かのやま」の「故郷」が「六・四」調(ひょっとしたら「三・三・四」調とも言えるのかもしれない)であるのに対して、こちらはきっちり「四・四・六」調が守られてますな。

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なのはな ばたけに いりひうすれ
みわたす やまのは かすみふかし
はるかぜ そよふく そらをみれば
ゆうづき かかりて においあわし

さとわの ほかげも もりのいろも
たなかの こみちを たどるひとも
かわずの なくねも かねのおとも
さながら かすめる おぼろづきよ
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うううむ!

そして、2番の歌詞は豪速球を続けざまにストレートで投げ込んでくる感覚だと、いつも思う。情景の速射砲でたたみかけて、「さながら霞める」で一気にまとめて受ける剛腕の力業です。しかもそれは聴覚にまで及んでいる。2番が好きって人も多いんじゃないかなあ。ツルもそうですが。

一方、この歌の歌詞の解釈については;

・『芭蕉の「菜の花や 月は東に 日は西に」の句とは異なり、この歌の「月」は三日月である(べきだ)』

とか、

・『「1番から2番へは時間の経過があり、「霞」が「朧」に変わるのがその証左』

とか、

・『2番は木火土金水(もくかどごんすい)の五行説に沿っており、その森羅万象が「さながら霞める」と受けているのだ』

とか、

・『だから(2番は)原典どおり句読点つきの記載とすべき』

といった論考も多いようですが、ほんまにどうでもええ。音律に乗せて歌うことが大前提の歌曲の表記方にさほど深い意義があるとは思えないし、解釈の明確化は時に鑑賞の矮小化を招くと思います。

2019年3月 2日 (土)

故郷

今度は、「故郷」について。この文部省唱歌も「春の小川」と同じく、作詞 高野辰之、作曲 岡野貞一によるもの。

 

1933年(昭和8年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』掲載

 

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一、
うさぎおひし かのやま
こぶなつりし かのかわ
ゆめはいまも めぐりて
わすれがたき ふるさと

 

二、
いかにいます ちちはは
つつがなしや ともがき
あめにかぜに つけても
おもひいづる ふるさと

 

三、
こころざしを はたして
いつのひにか かえらん
やまはあをき ふるさと
みずはきよき ふるさと
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へー、見事に「六・四」調の連続になってるんだ。

 

昔からちょっと不思議に思ってるんだけど、「恙無しや」は「恙無きや」ではないのかという個人的疑問が消えない(さほど文語体の文法に詳しいわけではないので)。でもそれだと「恙無きか」としないと文法的に成立しないのかしら。

 

この歌のことは、「信州ゆかりの不思議な歌」というサイトにいろいろな情報が出ている。

 

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/zakki/uta.html

 

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文語体だが誰にでもわかる内容で、せつせつと日本人の琴線にふれて美しい。「ウサギを食べると美味しい」と覚えた子どももやがて大きくなると理解する。この歌を作詞したのは高野辰之(たかのたつゆき)(明治9/1876〜昭和22/1947)という信州人だ。長野県北部の寒村、下水内(しもみのち)郡豊田村(合併で現在は中野市)出身の国文学者で、東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)教授のとき、同じ学校の声楽の助教授だった岡野貞一とともに、文部省唱歌をつくることを命じられる。
いわば業務命令によるコンビだが、この二人による唱歌は驚くほど多く、しかも今なお歌い継がれている。

 

〔中略〕

 

著作権という考え方がない時代で、すべて「文部省唱歌」で片づけられ、家族も戦後になってはじめて知ったものもあるという。
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うんうん。小学校の音楽の教科書にも、「文部省唱歌」には作者名がクレジットされてなかったよね。

 

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唱歌「故郷」(ふるさと)は海外にいる日本人が涙を流す歌だ。もはや「国民歌」、あるいは「君が代」につぐ「第2国歌」という地位を占めているといってもよかろう。

 

〔中略〕

 

戦後ソ連によってシベリアに抑留された日本兵はこの歌に滂沱の涙を流したという。
私もそうした場面に出会ったことがある。一度目は1ドル360円時代のロンドンで、二度目は1ドル100円台のアムステルダムで。この間10数年があいていたが、それぞれ日本企業のビジネスマンと家族がいるパーティーの席だった。日本企業の尖兵としての気負いや、郷愁が入り混じっての涙だろうが、3日前に日本を出たばかりの私もほろりとした。
「うさぎ追いし かの山・・・」の故郷の山河の描写のあたりはともかく、「いかにいます 父母・・・」あたりでもうだめだ。忘却の彼方から一気にそれぞれの人の「故郷」を引っ張り出して懐旧にひたらせてしまうのだ。
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「第2国歌」という指摘が真に的確なものかどうかはわかりかねます、何と言っても「さくらさくら」(作者不明;近世の箏曲にルーツありとなむ)なる強力なライバルもいますので。
しかし、ここに書かれた在外邦人の心情は確かにそのとおりだろうと思う。そこから考えると、「この歌のモデルとなった場所はどこか」などという詮索、じゃない考証はどうでもいい気がしてくる。「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ」(「椰子の実」:作詞 島崎藤村:cf. 2013.03.13「五七調の歴程」)はどこが舞台かなんてのとは本質的に異なると思う。
そして、地域を超えて、世代を超えて、日本人として共有する/できる原風景ないしは原体験というものがこの歌で(文部省唱歌で?)目指されたのならば、それを特定の「ご当地ネタ」に適用させるというのはちょっと違うんじゃないかと感じる次第。

 

このサイトには次のようなAnecdoteも紹介されている。

 

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日本人にとって「故郷」(ふるさと)はいまや国民歌というべき存在になったと思うが、その歌の力を如実に示したのが2011年3月11日日本を襲った東日本大震災だった。被災地で、神戸で、遠く離れた海外で、それぞれ励ましと復興を願ってこの歌が歌われた。
そうした中で圧巻は、世界三大テノールの一人、プラシド・ドミンゴ(70)が震災から1ヵ月後に歌った「故郷」だろう。震災とそれに伴う福島原発のメルトダウン事故で多くの音楽会が公演を中止したなかで彼だけはあえて来日した。これまで20回以上訪れ、コンサートやオペラ公演を行ってきたドミンゴは3000人の聴衆を前に「今回は特別に意義の深いコンサートだと思って来日しました。私もメキシコ地震で親戚を亡くしましたので皆さんの気持ちがよく分かります。いつの日か必ず強い気持ちを取り戻せる日が来ることを皆さんも信じていてほしい」と語りかけ、収益の一部と会場で集めた募金を被災地に送った。
そして「プラシド・ドミンゴ コンサート イン ジャパン 2011」(4月10日、東京・渋谷NHKホール)のアンコール曲に選んだのが「故郷」だった。「皆さんも一緒に」とソプラノのヴァージニア・トーラとともに日本語で最後まで歌い上げた。コンサートを聴いていた銀行家が後に書いているところでは「2番の『如何にいます父母、恙なしや友垣、雨に風につけても、思い出ずる故郷』の部分では、聴衆はほとんど全員が立ち上がり、涙を流していた。想像を絶する被災と苦難の中で、日本の原風景のような東北の風景を思い浮かべ、私もとめどなく涙が流れた。」
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ううう、涙腺をいたく刺激されます。

 

そしてもう一つ。
3番の「志を果たして いつの日にか帰らん」には、「志を果たすまでは帰らない/帰れない」という含意があるか否かという議論があるらしい。ツルは明確に意識はしていなかったけれど、ずっと肯定説で解釈してきたように思う。
けれど、バブル期に社会人となり、気がついてみればあと数年で定年退職を迎えるような年齢まで生きてみて、すこぅし違う感覚にもなってきている今日この頃(T-T)。福岡に帰ることばかり考えていたりもする。もちろんこんなこと↓も思いますけれども。

 

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小景異情(その二)
   室生犀星

 

ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして悲しく うたふもの
よしや うらぶれて
異土の乞食(かたゐ)と なるとても
帰るところに あるまじや
ひとり都の ゆふぐれに
ふるさとおもひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや
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2019年3月 1日 (金)

春の小川

春の弥生の三月を迎えまして。
今回は、【その224】で少し書いた「春の小川」のことについて深掘り。文部省唱歌のあれこれについては、既に優れた論考がネット上にも各種存在するので、それらのつまみ食い状態になっちゃいますが

 

この歌は高野辰之が作詞、岡野貞一が作曲したとされるけれども、「文部省唱歌」の例に漏れず当初は作者名が伏せられており、また、高野の直筆原稿も見つかっていないらしい。

 

いわゆる文部省唱歌にはよくあることだけど、この歌の歌詞は途中で改変されている、それも2度。
このことについては、東京都渋谷区にある富ヶ谷一丁目通り商店街のサイトに詳しい。

 

http://www.tomi-1.com/index.asp?patten_cd=17&page_no=192

 

「春の小川」の舞台となったのは実はご当地の河骨川(こうほねがわ)だったというんですな。この川は1964年、宇田川などと同様に暗渠となり、もはや往時を偲ぶべくもないけれども。(高野の出身地の長野県中野市ではまた違う説もあるようですが。)

 

歌詞を発表順で見てみよう。

 

【1】1912年(明治45年・大正元年)『尋常小学唱歌 第四学年用』掲載

 

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一、
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
にほひめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く。

 

二、
春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日ひなたに出でて
遊べ遊べと、ささやく如く。

 

三、
春の小川はさらさら流る。
歌の上手よ、いとしき子ども、
聲をそろへて小川の歌を
うたへうたへと、ささやく如く。
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初出の時は3番まであったんですねえ。

 

【2】1942年(昭和17年)『初等科音楽 一』掲載

 

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一、
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲いてゐるねと、ささやきながら。

 

二、
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、小ぶなのむれに、
今日も一日ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら
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初出から30年経ち、時局柄、国民学校への移行に伴い改められた教科書に載ったもの。文語体から口語体への転換が行われている。

 

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当時の国民学校令施行規則では国語で文語文を教えるのは5年生以上と定められていた。そのため、林 柳波が歌詞を口語体に変えた。さらに3番の歌詞を削除した。
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3番を削ったことに関しては、誠に大英断だったと思う。

 

【3】1947年(昭和22年)『三年生の音楽』掲載

 

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一、
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやきながら。

 

二、
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、小ぶなのむれに、
今日も一日ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。
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【2】から5年、戦争は終わり、1947年に文部省著作により出された最後の音楽教科書に載った歌詞。これがその後、民間発行の教科書にも受け継がれた。

 

以上のことを今回初めて知って、ツルはかなり驚いている。1番の最後のところを「咲いているねと ささやきながら」と歌うのは、「咲けよ咲けよと ささやきながら」を現代風に崩したものだとばかり思っていたので。
時系列からすると逆だったんですね!!「咲いているねと」が1942年の【2】、「咲けよ咲けよと」が1947年の【3】。もっと言うなら、この部分は1912年の【1】に戻ったわけだ。【3】で習った1962年生まれのツルは、【2】の「咲いているねと」が評判悪かったからだと理解しました。言葉が軽いだけではなく、全体の情景が相当変わってしまう(これは前々からよく指摘されてきたところだと思うが)。

 

さらに驚いたのは次のくだり。

 

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現在小学校で教えられている歌詞
1947年版の歌詞を教えるところもあり、また、新仮名遣いに改められた1942年版の歌詞を教えるところもあり、地域、教科書、学校によってまちまちである。また、合唱用としてオリジナルの歌詞を教わる場合もある。
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ホントですか なんでも、安田祥子・由紀さおり姉妹は【1】で通しているそうな。「合唱用として」の意味するところは、3番まで歌うということなんだろう。渋谷区では、中野市では、どう教えているんでせうねえ。

 

(続く)

2015年9月 9日 (水)

虹と雪のバラード vs 花束そえて vs WAになって踊ろう

(承前)

前々回、白鳥英美子のことをちょっと書いたので、1972年2月と1998年2月、日本で開催された2つの冬季オリンピックの音楽のことを。

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虹と雪のバラード
 作詞:河邨文一郎
 作曲:村井邦彦
 歌: トワ・エ・モワ
 (1971.08.25リリース)


虹の地平を あゆみ出て
影たちが近づく 手をとりあって
町ができる 美しい町が
あふれる旗 叫び そして 唄
ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
あの星たちの あいだに
眠っている 北の空に
きみの名を呼ぶ オリンピックと

雪の炎にゆらめいて
影たちが飛び去る ナイフのように
空がのこる まっ青な空が
あれは夢? 力? それとも 恋
ぼくらは書く いのちのかぎり
いま太陽の 真下に
生まれかわる サッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと

生まれかわる サッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと


今なお、最強のご当地ソングだと思う。単なるスポーツイベントのテーマという域を超えて、人々が集合離散を繰り返しながらも街ができあがっていくという様子が描き出されているからです。そしてそのことを日本国中が知っていた、見ていた。

トワ・エ・モワは芥川澄夫と山室英美子のデュオ。所属していたナベプロの意向で強制的に組まされたユニットだったんだそうな。山室は白鳥の旧姓です。彼女はその前スクールメイツにいたんですよ。
小樽生まれの河邨文一郎(かわむら ぶんいちろう:1917.04.15〜2004.03.30)の本業は整形外科医で、札幌医科大学教授を勤めていた。一方で詩人としても知られる。

実はこの曲はNHKの委嘱により作られたもので、レコードリリースに先立ち1971.02〜03に「みんなのうた」で放送された。
おなじみWikipediaによれば、こんないきさつがあったそうな。

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委嘱五輪開幕2年前の1970年、NHKは河邨に作詞を依頼する際に、

1.イベントが終わっても長く歌い継がれるもの。

2.オリンピックを待ち焦がれる札幌の人たちの心情を表していること。

3.重々しい式典風のものではなく、屋根裏の落第坊主がギターを爪弾いて歌え、なおかつ、何千人もの合唱に耐えうること。

の3つを要望した。
依頼を受けた当初はなかなか構想がまとまらず、河邨は2週間ペンが進まなかったという。
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この三条件、どれもすごいですねえ。本質をずばりと言い当てている。預言 or 呪文と言ってもいいかもしれない。
難渋しながらも河邨はNHKの期待によく応えてこの詞を書き上げた。「あふれる旗 叫び」の一言だけで、預言の二番目を成就させたのも見事です。
小学校低学年だったツルは当時、『なぜ「影」や「ナイフ」みたいな不穏な言葉なんだろう』と漠然と感じていた気がする。今考えれば、そここそが詩人の仕掛けた技だったんですね。
これに村井(荒井由実をデビューさせたかと思うと、市川 崑の横溝映画「悪魔の手毬唄」のスコアを書いたりしている)がメロディをつけて完成した曲は、山室の清涼感あるボーカルもあって大きなヒットをおさめた。トワ・エ・モワはこの曲で1971年の紅白歌合戦にも出場してます。
そして40年以上を経て今もなお、この曲は人々の記憶に残り歌い継がれている(札幌雪まつりの会場でも流されている由)。長い年月の後、預言の一番目は的中したわけです、二番目、三番目と同じように、いやもっとくっきりと。

長野五輪招致の際に白鳥に白羽の矢が立ったのも、20年前の「札幌の記憶」のためであることは間違いないだろう。

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花束そえて
 作詞:駒井 瞭
 作曲:白鳥英美子
 歌: 白鳥英美子
 (1991.09.21リリース)


連なる山が 朝陽に映える
白銀の大地は 友を迎えて
新しい炎燃やす
このときめきの瞬間を あなたに贈りたい
雪と氷と若い力の
オリンピックに 花束そえて

広い世界を ひとつにつなぐ
虹架ける大地は 花を飾って
幸せの愛育てる
このほほえみの輝きを あなたに贈りたい
雪と氷と若い力の
オリンピックに花束そえて

星はきらめき 歌があふれる
湯煙の大地は 人を結んで
すばらしい夢咲かせる
この限りないあこがれを あなたに贈りたい
雪と氷と若い力の
オリンピックに 花束そえて


見比べてみて、二点指摘しておこう。

まず、ひどくつまらなくなってますよね、本歌取りの「虹」「雪」はまあ大目に見るとしてもだ。はなから「連なる山が 朝陽に映える」じゃ、テンプレ校歌で散々見てきたところと何も変わりはしないじゃないか。「白銀の大地」「虹架ける大地」「湯煙の大地」だってせいぜい雪国の温泉地のご当地ソングどまりである(「虹架けて」のフレーズは小豆島中学の校歌にも出てきたよな)。
一方で、対象への迫り方が圧倒的に不足してるから、全体の印象は曖昧模糊としてるんです。これでは聖火をご当地までたぐり寄せてこられないでしょう。

しかし、視点を変えてみると、後年の駒井の作品に比べれば、まだまともだったと言えると思う。この後、型に嵌まったClicheばかりが肥大する形で、LyricにせよVisualにせよ、駒井の公募仕事は内容を喪失していく。

残念ながらこの歌はほとんど反響を呼ぶことなく、代わりに長野五輪はこの歌一色に染まった。

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ILE AIYE 〜 WAになって踊ろう
 作詞・作曲:長万部太郎(角松敏生)
 歌・演奏:AGHARTA
 (1997.05.21リリース)


うじゃけた顔してどしたの
つまらないなら ほらね
輪になって踊ろ みんなで
遊びも勉強もしたけど
わからないことだらけ なら
輪になって踊ろ 今すぐ

悲しいことがあれば もうすぐ
楽しいことがあるから 信じてみよう

Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala すぐにわかるから
Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala 夢を叶えるよ
Oh O Oh Oh Oh O O O Oh

大好きな娘がいるなら
はずかしがってちゃダメね
輪になって踊ろ みんなで
大人になってもいいけど
忘れちゃダメだよ いつも
輪になって踊ろ いつでも

一人ぼっちの時でさえも
誰かがいつも君を 見ててくれる

Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala すぐにわかるから
Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala 夢を叶えるよ
Oh O Oh Oh Oh O O O Oh

ハー ヤッサ ソレ ハイ

Ile Aiye Ile Aiye
Ile Aiye Ile Aiye
Ile Aiye Ile Aiye Ile Aiye

悲しいことがあれば もうすぐ
楽しいことがあるから 信じてみよう

Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala すぐにわかるから
Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala 夢を叶えるよ ハイ!

Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala Lalalalalalalala
Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala Lalalalalalalala

Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala Lalalalalalalala
Oh O Oh さあ輪になって踊ろ
Lalalalala Lalalalalalalala


例によってカバーバージョンも多くて、曲のタイトルはアーティストやバージョンにより微妙に異なってます。

1997.04〜05にNHK「みんなのうた」で放送され火がついたという経緯は「虹と雪のバラード」とよく似ている。反響は大きく、その後も1997.08〜09、10〜11、1998.02〜03と繰り返し再放送され、その中で長野五輪との関わりができあがっていったのは前に書いたとおりです。(cf. 2012.11.05「WAになって踊ろう」)

五輪ソングというものが、「世界」がやって来る街のことを歌ったものから、出場者を応援するもの、さらには出場者の心情を表すものへと変わってきた気もする(三波春雄の「東京五輪音頭」まで広げて考えればもっとはっきりするような)。ツル的には、この曲のイメージは「吹雪の中、ジャンプ台のスタートポイントに座って風待ちをしている選手」です。
この曲はこの曲で、十分Olympic Anthemたり得ていると思いますけどね。次はどんなものが出てくるんだろう。

2015年8月26日 (水)

I.G.Y.(あるいは流線形の世界)

(承前)

NIKEのSwooshのことを書いていて、この歌を思い出したので、ちょっと。(すみません、また前世紀モノです)

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I.G.Y. (International Geophysical Year)
 作詞・作曲:Donald Fagen
 歌:Donald Fagen
 (1982.10リリース アルバム "The Nightfly" より)


Standing tough under stars and stripes
We can tell
This dream's in sight
You've got to admit it
At this point in time that it's clear
The future looks bright

On that train all graphite and glitter
Undersea by rail
Ninety minutes from New York to Paris
Well by seventy-six we'll be A.O.K.

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free

Get your ticket to that wheel in space
While there's time
The fix is in
You'll be a witness to that game of chance in the sky
You know we've got to win

Here at home we'll play in the city
Powered by the sun
Perfect weather for a streamlined world
There'll be spandex jackets one for everyone

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free

On that train all graphite and glitter
Undersea by rail
Ninety minutes from New York to Paris
(More leisure for artists everywhere)

A just machine to make big decisions
Programmed by fellows with compassion and vision
We'll be clean when their work is done
We'll be eternally free yes and eternally young

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free
What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free...
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"Voice of Steely Dan"、Donald Fagenのファーストソロアルバムに入っている曲です。
「国際地球観測年」なんて、およそ歌のタイトルにはなりそうもない言葉を持ってきちゃった、しかも略称で。でもそれがカッコよかったんだよね(アルバムジャケットもカッコよかった!「青文字系」です。わからなかったらそこら辺の女子高生に訊いてネ)。ツルは当時レコードで買いました。CDというものが世に出る直前じゃなかったかな。

The Nightfly

International Geophysical Yearとは、冷戦下の1957.07.01〜1958.12.31に行われた国際プロジェクトのことで、日本政府も参加していた。こんな切手、見たことありません?

国際地球観測年記念切手

ツルも子供の頃切手を集めていて、これは持ってました。(発行当時は生まれてなかったっす!キッパリ。)
当初日本は赤道方面を観測する目論見だったのが、いろいろあって南極を担当することになったらしい。「昭和基地」ができたのもこの時です。

で、ドナルド・フェイゲンの歌のこと。確か、ライナーノーツに、「50年代後半の平均的な若いアメリカ人男性の心情を表したものである」みたいな本人のコメントが書いてあって、「80年代の今になんでまた??」と思ったことを覚えている。つまりは「'76年までにはニューヨークとパリが海底列車で90分」とゆーのを歌ったのが'82年なわけよ。
明るい未来とOptimism。青年の頭の中にこだまする米国大統領の演説のようでもある。

そんなわけで、歌詞の中には「International Geophysical Year」の語が一度も登場しない次第。象徴なんですね。

"streamlined world" にはいつまで経っても到達しないこと、それ自体願望と妄想に過ぎないこと。それらが既に社会共通の認識となって久しく、かつ米国が少しずつ地盤沈下を起こし始めていた1980年代初頭という(中途半端な?)時代に敢えてこのコンセプトで発表したセンスに惹かれます。
Reality bites, truth hurts. しかもその頃まだまだ新しい音楽だったレゲエのoff-beatをちょっと利かせて(その意味では単なる過去の準りでもない)。でもこのノンビリしたお気楽その日暮らしの曲調の中に隠されている「毒」を見落としちゃいけないよね。
さすがにDonald Fagen、一筋縄じゃいかない。

因みに "Steely Dan" ってグループ名は、アメリカSF界の問題児 William S. Burroughs(1914.02.05〜1997.08.02)の発禁小説「裸のランチ/Naked Lunch」(1959)に出てくる、男根の張り型 "Steely Dan III from Yokohama" から来てるってご存じでした?(「南極2号」みたいなもんね。)

2015年8月22日 (土)

西條八十 ぼくの帽子 vs 角川春樹 信長の首《二》

(承前)

つまるところ、角川プロデューサーは犬神家に続いて「母もの」を撮りたかったわけです、森村誠一の小説と西條八十の詩の世界を借りて。映画は激ツマで退屈でしたけど。

それにしても「ぼくの帽子」は不思議な詩だと思う。初出は児童雑誌「コドモノクニ」の創刊第2号となる大正11年(1922年)2月号。

ぼくの帽子

夢二風の挿画を見ると、左の絵では冬の日に暖炉の前で語らう母子の姿が描かれているけれども、詩から受けるツルの印象では、母親は既に亡くなっていて、息子が心の中で語りかけているようにしか感じられない。英語版もそこに焦点を当てて書かれてる気がします。
因みに縦書きの原文は全ての漢字にルビつき。「以太利」は「伊太利」ではありません。4文字分のルビがあるから「イタリヤ」と読ませるんでしょう。同様に、「埋める」は「うづめる」だと思う。

腑に落ちないことはまだある。この母子、薬売りに手助けしてもらったぐらいだから父親や男衆は付き添っていなかったということになるだろう。軽井沢駅に程近い碓氷峠から霧積まではどう見積もっても直線距離で6kmはある。しかも碓氷峠は古来中仙道の難所として知られたところだそうな。そんなところを女親と幼子だけでてくてく歩いていったんですかねえ??そこら辺からして詩人の創作なんだろうか。(であれば、まさに「霧積」の響きだけに惹かれて書いたことになりそうだ。Kiss me Mammy.)

西條八十(さいじょう やそ:本名同じ:1892(M25).01.15〜1970(S45).08.12)は、詩人にして仏文学者、早稲田大学仏文科教授。象徴派の詩人だから、「母親他界説」もそれなりに説得力あると思うのだけれど(いや、事実がどうかということではなくてね)。
作詞家としても広く知られ;

「東京行進曲」 ♪昔恋しい 銀座の柳(作曲 中山晋平 / 唄 佐藤千夜子:1929.05.01発売)

「蘇州夜曲」 ♪水の蘇州の 花散る春を(作曲 服部良一 / 唄 渡辺はま子&霧島 昇:1940.08発売 / 唄 李香蘭(山口淑子):1953発売)

「青い山脈」 ♪青い山脈 雪割り桜(作曲 服部良一 / 唄 藤山一郎&奈良光枝:1949.03.10発売)

「王将」 ♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に(作曲 船村 徹 / 唄 村田英雄:1961.11発売)

など戦前戦中戦後の各時代を代表する歌謡曲作品もある。ツルはなんとなく戦前の人だと思っていたけど、そんなことなかったですね。(いずれもツルの生まれる前です、きっぱり。)
戦後には日本音楽著作権協会/Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers/JASRACの会長も務めていた。作詞界の最重鎮だったことは間違いないでしょう。

そしてジョー山中(1946.09.02〜2011.08.07)のこと。亡くなっていたんですね。ミュージシャン、俳優、そしてプロボクサーでもあった(リングネーム 城アキラ:本名 山中 明)。この映画では主題歌を歌っただけでなく、準主役の扱いで混血青年を演じている。しかし1977年、大麻取締法違反容疑で逮捕、まだこの映画の公開中だったと思う。角川映画の宣伝戦略は多少つまずいたわけだ。

そして再び角川春樹。出版界・映画界の風雲児としてもてはやされたのも1980年代終わりまで。薬師丸ひろ子・原田知世・渡辺典子の「角川三人娘」に去られ、実弟とのお家騒動も表面化し、1993年にはコカイン密輸により麻薬取締法違反容疑で逮捕、最高裁まで争って結局懲役4年の実刑判決を受けた。切り落とされてしまったのは信長ではなく自らの首。

その後も(いや、塀の中でも)作句は精力的に続けてきている。近年は「俳句」と呼ばずに「魂の一行詩」と名づけていて(´ψψ`);

蛭に血を吸はせてをりぬ歌舞伎町
 「朝日のあたる家」(2006年)より

なんて作品もあります。この時64歳前後、やっぱりちょっと精力余り過ぎ

ここまで来たら、大野雄二(1941.05.30〜)のことも斬っておかう。いや、この人のことは大好きなんですよ。

前年に角川映画第1弾、「犬神家の一族」のスコアを書いた大野は、しかしその後市川−横溝映画の音楽を作ることはなかった(cf. 2015.03.23「角川映画「犬神家の一族」」・2015.03.25「愛のバラード」)。大監督の意向一つで曲がズタズタにカットされてしまうことに不満があったようです。その代わりに手がけたのが「人間の証明」ということになる。因みに翌年1978年の角川映画第3弾、「野性の証明」の音楽もね(主題歌「戦士の休息」by 町田義人の作曲を含めて)。

でもこの映画の主題歌って、Queenの "Bohemian Rhapsody"(1975.10.31リリース アルバム「オペラ座の夜/A Night at the Opera」より)と、イントロのピアノラインから歌い出しの言葉までが激似だったんですよねえ。有名な話だと思うけど。
テレビからボヘミアン・ラプソディが流れてきたかと思ったら、人間の証明のテーマだったという経験をした人は当時多かったはず。ツルも毎回ハッとしてましたもん。わかっているのに、それだけそっくりだったんです。フレディ・マーキュリーとジョー山中、声がそんなに似てるはずもないのに。

-----
Mama, just killed a man
Put a gun against his head,
pulled my trigger now he's dead
-----

大野センセイに聞きたいものです、「Queenにインスパイアされたんですか?角川社長に言われたんですか?」って。

ああ、それにしても。今回名前を出したうち、今も生きているのが角川と大野と町田しかいないなんて。角川三人娘を除けばね。

あっ!!船村 徹先生はご存命でしたっm(__)m!

2015年8月20日 (木)

西條八十 ぼくの帽子 vs 角川春樹 信長の首《一》

(承前)

前回、「霧」がらみのことを書いていてこの詩をふと思い出した。

-----
ぼくの帽子
 西條八十

――母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
  ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
  谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

――母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
  僕はあの時、ずゐぶんくやしかつた、
  だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

――母さん、あのとき、向から若い薬賣が來ましたつけね。
  紺の脚絆に手甲をした。――
  そして拾はうとして、ずゐぶん骨折つてくれましたつけね。
  けれど、たうとう駄目だつた。
  なにしろ深い谿で、それに草が
  背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

――母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
  あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
  もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
  秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
  あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも
  知れませんよ。

――母さん、そして、きつと今頃は、――今夜あたりは、
  あの谿間に、靜かに雪が降りつもつてゐるでせう、
  昔、つやつやひかつた、あの以太利麥の帽子と、
  その裏に僕が書いた
  Y・Sといふ頭文字を
  埋めるやうに、静かに、寂しく。――
-----

今読んでみても、冒頭から引き込まれます。「夏、碓氷から霧積へ」という言葉遣いも、字面、響きともに極めて印象的ですし。

「碓氷」とは、長野県北佐久郡軽井沢町と群馬県安中市の松井田町(*)との県境にある碓氷峠(標高約960m)のこと。いわゆる中央分水嶺に含まれ、この峠より長野側に降った雨は信濃川水系、群馬側に降った雨は利根川水系となる。
一方「霧積」は、松井田町にある霧積温泉。江戸末期に発見されて明治半ばから整備が進み、当時は避暑地として賑わっていたようですが、山津波により温泉地は壊滅。霧積川上流に2軒残った旅館も、2012年にきりづみ館が廃業、現在は金湯館(きんとうかん)ただ1軒のみ。「温泉地」から再び「秘湯」になりつつある現情。

(*)旧 碓氷郡松井田町。2006年3月18日に(大モメにモメた末)安中市と新設合併している。さらに遡ると、1954年5月3日に碓氷郡の(旧旧)松井田町・臼井町・坂本町・西横野村・九十九村・細野村が新設合併して(旧)松井田町となっているので、この詩が書かれた当時に碓氷峠や霧積温泉がどの町村に属していたのか調べてみたけど、よくわからなかった。おそらく臼井町(碓氷峠は旧くは「臼井峠」とも書いた)あるいは坂本町だと思いますが。

この詩、1960年代までに生まれた人にとっては、ある意味すごーく懐かしい作品ですよね、ツルを含めて^_^;。現在オジさんオバさん以上になった世代の心の奥底に消し難く刷り込まれているのは、1977年に公開された角川映画第2弾、「人間の証明」のせいです。森村誠一の同名原作でもこの詩は重要な役割を持って登場するけど、映画化当時、毎日毎日超大量に流されたテレビCMで、冒頭のフレーズはそれこそ日に何度も何度も目に耳にしていたからね。

人間の証明

流れていた主題歌もこの詩を踏まえたものだった。

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人間の証明のテーマ
 作詞:西條八十
    角川春樹
    ジョー山中
 作曲:大野雄二
 歌: ジョー山中


Mama, do you remember the old straw hat you gave to me
I lost the hat long ago
flew to the foggy canyon
Mama, I wonder what happened to that old straw hat
Falling down the mountain side, out of my reach like your heart

Suddenly the wind came up
Stealing my hat from me
Swirling whirling gusts of wind
Blowing it higher away

Mama, that old straw hat was the only one I really loved
But we lost it, no one could bring it back like the life you gave me

Suddenly the wind came up
Stealing my hat from me
Swirling whirling gusts of wind
Blowing it higher away

Mama, that old straw hat was the only one I really loved
But we lost it, no one could bring it back
like the life you gave me
like the life you gave me
-----

和文から個別性の要素を引き算した結果、象徴性が前面に出てきた気がします(適当なこと言ってら)。

しかしツッコミどころも多いねえ。どこからいきましょうか。

角川書店の当時の社長、あるいは同社の娯楽大衆化路線の一大立役者、角川春樹(1942.01.08〜)には俳人としての顔もあり、同人誌「河」を主宰してたりもする。俳句にのめり込んでいったのは1980年代以降のようだけど、このころから自分の映画につける歌にも口を出してたというわけね。

黒き蝶ゴッホの耳を殺ぎに来る
 「カエサルの地」(1981年)より

向日葵や信長の首切り落とす
 「信長の首」(1982年)より

えげつないほどギラギラしてますなあ。「殺ぎ」は「そぎ」です。

第二句集「信長の首」では、1982年芸術選奨文部大臣賞と第6回俳人協会新人賞芸術選奨新人賞を手にした。
この句、ツルはなぜか;

向日葵に信長の首斬られけり

と長いこと覚え込んでいて、やっと記憶違いを認識した次第っす(*''*)。

俳人として見ると、角川は割と多作というか精力的に活動してきたと思うけど、1990年に第八句集「花咲爺」で第24回蛇笏賞を取った時には身贔屓とだいぶ叩かれた。蛇笏賞(と短歌の迢空賞)が、角川文化振興財団により選ばれるものだからです。親玉の親方に出したんじゃねえ。どこかよそに任せとけばよかったのに。

ツルは、上記の二句に対抗し得る作品というと次のものしか知らない。

黒き凧見つけて天に歩み寄る

虹二重双生児のわれら誰から死ぬ

この二句の作者については愚blogの2012.02.11の記事をご覧下さいませね。(だからほれ、こういうのを身贔屓というのよ

(続く)

より以前の記事一覧

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