【前口上】
2ヵ月近くぶりに、再開です。お蔭様で経過は良好。もう松葉杖も使ってないし。テレワークとリハビリと庭仕事に励む日々。お外はまだまだ寒いけどねえ。
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(承前)
cf.
2012.02.20「飛梅(わたしも一夜で飛んでいくと言った)」
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そして時は流れ去り、1999年6月に父親が亡くなった後、空き家となるこの家の錦鯉たちをどうするかということは再びなかなかの大問題になった。一族郎党、思案投げ首していたんですが・・・
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今回はその顛末記。
以下は、当時東京住まいだったツルが親しい友人たちに宛てて書いていた、2週間に1度の週末博多帰省の報告メール、「帰福日記」より。入院している父を見舞ってたんです(この時にはもう他界していたけど)。取っといてよかったーww。登場人物の名前は適宜いじってあります。
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(1999.08.31 メール)
件名: Anecdote 1: 錦鯉
ここからはそうそう平凡じゃないかもしれない、これがほんとの「うらぼん日記」。
懸案事項がひとつ解決しました。14匹の錦鯉のヨメ入り先です。何といっても生き物だし、今は毎週誰かが餌やりに行ってるけど、これもずっと続けるのははっきり言って無理だし、どうしようという話になっていました。
いつも買ってた錦翠園という錦鯉屋さんも、引取りはしてないって言うし。錦鯉に関する父のお師匠さんも、自分の所は一杯だとおっしゃるし。そりゃそうだよね、鯉を飼おうという家なんてそうそうはなかろうし、飼ってるところは密度一杯まで飼ってるだろうし、タダでも引き取ろうというところはなかなかないでしょう。
鯉屋さんいわく、ライオンズクラブに頼むと、どこぞの川に放流してその後餌やりを引き受けてくれるそうな。でも、「川」なんてねェ。あるいは、家のすぐそばにある老司大池という潅漑用池に放そうかという話にもなっていた。つまりは話が行き詰まっていたわけ。
起死回生のヒットを放ったのは姪の結衣ちゃん。高2の彼女が言い出したのが、太宰府天満宮の境内の池!そんなのどうせ無理だろうと思って僕が電話したら、ご奉納はありがたくお受けしておりますとのこと。ラッキー!
ただ、さだまさしの歌(「飛梅」)にもうたわれている、一番のメインの「心字池」はただいま大改修工事中で、そこにいた鯉やら亀やらは全部、上の方の「菖蒲池」に仮住まいの身分。心字池の工事は年内一杯かかるそうで、完成後に(全部かどうか知らんが)戻すそうです。
ほんとは新しくなってから心字池に放流をと思わないでもないけど、それじゃ福岡の姉たちが餌やりなどで大変だろうからということで、次の帰省を9/10(金)夜~12(日)夜にして、土曜の午後に放しに行きます。もちろんお宮さんの立会いのもとで。
父の可愛がってた鯉が、あの太宰府天満宮に泳いでいる!それって、なんか、いいでしょ。初詣での楽しみも増えそう。うちの家紋が梅鉢のせいかどうか、太宰府には昔からなんだか特別な親しみがあった。いいとこに決まってよかったよかった。一同みんな、満足しています。今年のゴールデンウィークに買った、宮田センパイの紅白鯉も一緒に放しますよ。
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実は姪っ子は、心字池の大改修開始の記事が新聞に出ていたのを数日前に読んで、それが頭に残っていたらしい。
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(1999.10.24 メール)
件名: 錦鯉サン、またね。
以下は、随分旧くなっちゃったけど、9月の帰福日記その2。
父が遺した錦鯉を太宰府に納めに行った時の物語。下書きつくって出すの忘れてました。それだけ精神的リハビリが進んじゃったわけだよね。ミクロネシアもとっても楽しかったし。
9/11、土曜日の午後に太宰府天満宮で錦鯉の奉納をしてきました。残念ながら太宰府奉納の発案者たる姪の結衣ちゃんは欠席。高校の文化祭が近いので、ブラスバンド(クラリネット)の練習をはずせないとのこと。行きたがってたようですが。真紀ちゃんと隆平くんは出席。
3時に錦鯉屋の錦翠園のご主人が到着。14匹の鯉の輸送準備をしてもらうため。発声一番、「随分大きくなりましたねえ」との仰せ。5月に宮田センパイと父と3人で買いに行った紅白もすっかり育ち、大きさではあまり他と見分けがつかないほどになっていました。十分な餌もやってなかったはずなのにねえ。
まずプラ製の籠のような箱のようなものを池に入れる。スーパーの買物籠を4倍位にしたようなもの、と言ったら近いかな。この籠に鯉を1匹ずつ網ですくって3~4匹まで入れて、それからでっかい丈夫な透明ビニール袋を二枚重ねにしてこの籠の中に差し入れ、そうっと水ごと鯉を入れるわけ。こう言うと簡単そうですが、相手は生き物、この籠からすぐにバシャッと何度も何度も飛び出しては池に戻っていく、元気な暴れん坊のやつらでした。
何より、この籠の中に入れると、池の中にいた時より一層大きく見える。内側に目盛が切ってあり、大体の体長が判るようになっているのですが、大きいものでも30センチあるかないかと思っていたのが、軽く40は超えてるだろ、てな具合でこれにはちょっとびっくり。
数匹入れたあと、鯉屋さん持参の酸素ボンベで酸素を満たし、輪ゴムで厳重に止めて一丁上がり。これを全部で4つ作りました。えっと、因みにタダじゃない。2万円也。業界の申し合わせでこういうのは3万円のところ、うちはお得意さんだからということで負けてくれたそうで。ま、例のフィルターも30万はしたはずだから、そりゃ上得意だよなあ。水の消毒用に使ってた粗塩の20キロ入りの袋が一つ、封を開けないままになってたので、これも押し付けちゃいました。そして次姉の車のトランクに4つのビニール袋入りの鯉を入れました。鯉屋さんはここまで。
その日は天気がよくて大変蒸し暑い日だったので、すぐに車2台で太宰府天満宮へ。つまり、水温が上がらないようにということ。お宮にはあらかじめ連絡済みだったのですが、丁度その日は境内で市が開かれていて、賑わってました。立ち会っていただいたお宮の人にはけっこうご迷惑だったかも。
裏から車を回して「菖蒲池」のすぐ側までつけます。
4つの袋をトランクから出します。
水も入ってるし結構重い。女性の腕ではちょっと無理かな。
池の回りには低い柵があるのですが、これを僕がまたぎ越えて水辺まで降り、
義兄に袋を渡してもらい、ひと袋ずつ水に浮かべて口のゴムを開け、静かに放しました。
水はお世辞にもきれいとは言えない濁った水なのはしょうがない。
今までは浄水機つきの澄み切った水に棲んでたから、鯉たちはちょっとびっくりしたかな。
そのままツイーッと泳ぎ出ていくかと思ったら、そうでもなかったみたい。
結構すぐ近くの底の方で数分ほどじっとしてる影がうっすら見えていました。
まあ、鯉は丈夫な魚だから、慣れれば大丈夫でしょう。
菖蒲池には亀もけっこういるのですが、その中で一匹、結構大きいのが寄って来て、ひどく興味ありげに見ていたのがなんだかおかしかった。ビニール袋に鼻先がぶつかるまで寄って来る。そうして放流が済むまで、そばでじっと見守っていたのであった。ツルと亀と鯉が出会った、そして別れた瞬間。写真ももれなく撮ってあったりする。
その後で社殿にお参りしました。お賽銭はちょっと奮発して五百円玉を投げたのは、お参りがあとさきになったおわびと、そしてもちろん、鯉が長生きしますようにと。
5月に訪れた際には何でもなかったのに、今回、社殿前の楼門が大改装中、完全に白布で覆われていました。一応下は通れるのですが、なんだか白布のアーチをくぐってるよう。観光客はがっかりするでしょうね。11月には終るそうだから、初詣には間に合わせるわけだ。
本当は鯉を放すはずだった、さだまさしの歌で有名な例の心字池も大変なことになっていた。水を干し上げて、ブルドーザーが2台入って底の泥を浚渫中。だからここに棲んでた鯉や亀もいま菖蒲池に避難中なわけやね。岸辺もコンクリートユニットなんかも使って補強するようで、水の浄化装置もつけるように見えました。これも12月竣工とか。そうなったら鯉なんかを戻すわけ。今度はおそらく美しい水の中で、うちから嫁入りした鯉に再会できるかもしれません。
本殿に近いところにはもう一つ別の小さな細長い池があって、ここには澄んだ水が流れている。ここの鯉は業者から借りているので、ここには放流できないとはあらかじめ電話で聞かされていました。と仰るからにはどんなありがたいお鯉さまかしらと思って見てみたら、けっこう駄鯉(ごめんなさい!)が多い!ただ大きくて太ってるだけ、みたいな。色も柄も全然ぱっとしない。家族全員、こんなのだったらうちのをここに入れた方がずっとましやん、なんて罰当たりなことを言い合いましたとさ。父の薫陶を受けた(!?)錦鯉観賞家として、僕は客観的に見たんですけど、同様に思ったね。
その後、次姉お奨めのさる茶店で太宰府名物梅ヶ枝餅をいただいて帰りましたとさ。ああよかったよかった。
帰る道々思ったのだけど、太宰府天満宮という歴史の古いところに奉納したことによって、僕らの頭の中ではあの鯉たちも永遠の生命を得たような、そんな気がしています。たとえば僕が父の歳くらいになったとしても、例えば天満宮に観梅に行った時に、父の鯉はいないかと、きっと心字池にかかる太鼓橋の上からその姿をさがすことでしょう。
こんなわけで、いざ太宰府の放流記は終わり。書籍や衣類の整理はちっとも進みませんでしたとさ。
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♪心字池にかかる 三つの朱い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
御鯉様様やな。参拝客も多くいる中、「なになに?」状態の人だかりになってたっけ(笑)。
この時ツルは36歳だった。父親が宮崎の上椎葉村までダム建設の慰霊碑の案文の着想を練りに行ったのとほぼ同じ年齢だったのねえ(cf. 2012.12.19~22「上椎葉ダム慰霊碑のこと」)。この時、父親が亡くなって早三月が経とうとしていた。肩の荷が下りました。
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへり来む
中納言行平
そしてまた矢のように20年が過ぎ去り、縁あって福岡に戻ってきて、今住んでいるこの家の庭には、鯉の入っていた池が今もある。今は水を抜いてしまったその池を見るのが少し悲しいです。往時の庭の有様を取り戻し、もっと素敵なものにするために、園芸おたくのツルはそれこそ週末ごとに朝から夕方まで庭仕事ばっかりやってます。もう雑草だらけなんて言わせない。ヤマモモの大木もクロガネモチもモミジもキンモクセイもマキも梯子をかけて剪定かけて、だいぶ姿が整ってきたし、念願の八重紅梅「鹿児島紅」も植えてもらいました(3年前に台風で根元から折れて復活しなかった一重白梅の後釜;でも着生させていた風蘭は救い出して、もう一本の白梅「大輪八重緑萼」とマキに付け直しました)。雨が降ったら降ったで、カーポートの屋根の下であくせく土作り。
池に落ちた木の葉の掃除をちょっと怠っていると(こらこら)いつの間にか少し雨水が溜まっているような場合もあり、先日庭いじりをしてて割と大きな水音が聞こえたので何事だろうと思って見に行ったら、なんとカササギが水浴びしてました。とてもハンサムな鳥なので、これが庭に来てるといつも嬉しい。佐賀平野や筑後平野にしかいなかったのに、最近棲息域を拡げてるんですよね。
けれどつまるところ、池の鯉を復活させねばこの庭は永遠に完成を見ないのではないかと思ったりもする。でもあの錦翠園ももう店をたたんでしまったと聞いたし😢。
♪あの日と同じように今 鳩が舞う
コイは本来大変長命な生き物で、特に水温が低目の環境の場合など、200歳ぐらいまで生きたという確かな記録もあり、言わば一生モノみたい。1970年代、名古屋女子大学学長越原公明(こしはら こうめい)氏の夫人の実家@岐阜加茂郡東白川村越原(おっぱら)(つまり嫁の姓を名乗ったわけね)の池で飼われていた緋鯉「花子」が、鱗の年輪の測定により推定226歳としてギネスブックに載った。
だから、その後も太宰府を訪れるたび、きっとうちの鯉もまだいるはずだと思って菖蒲池を眺めることにしている(書いたとおり、当時きっとそうなるだろうと思っていて、そしてそのとおりになった)。
♪東風吹けば
東風吹かば君は
しかし、2年前に福岡に戻ってきてから、まだ参詣していません。それもコロナで外出自粛してたせい。飛梅咲く季節、今年こそまた行ってみようと思います。さして遠くでもないし。
♪太宰府は春
いずれにしても 春
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